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ほめることの大切さ

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TeroVesalainen / Pixabay

ほめること

人はだれでも「認められたい」という願いをもっています。私たちの行動の多くは、意識する、しないは別として、この「自分を認めてほしい(ほめられたい)」という動機から出ていると、心理学者は語っています。ですから逆にいえば、相手を心からほめることができれば、私達も人間関係の達人となることができるのです。

同じ仕事をするのに、叱られながらするのと、ほめられるのとで結果に違いがあるかどうか統計をとってみた人がいます。すると「よくやってるね」とほめられ励まされた方がはるかに良い結果が出たのです。「もっと早く!」「なにやってるの、しっかりやりなさい」と叱咤激励されると、恐いから一生懸命やってよくできるようになると思われがちですが、実際には叱られて大きく成長していける人は多くないのです。

子供を育てる上でも、ほめる方が良いとわかっていても、私達はつい叱ることの方が多くなってしまいます。また、いくらほめたいと思ってもほめる所がないと思えることもあります。そのような時には、ほめることを作ってでも(例えばその子にでもできる小さなことを頼んで、心から「ありがとう」と言う)、1日に1つは必ず良いことを見つけてほめてあげて下さい。その時子供は大きくかわっていくのです。

ただし、ここで1つ注意すベきことがあります。それはいかにもお世辞のように、口先だけでほめるのは逆効果だということです。かえってバカにされたと思わせ、傷つけてしまいます。そうではなくて、本当にその人のよいところを見つけ出し、心からほめることが大切なのです。その時、その人は深い満足感を得、もっとやろうという気持ちになっていけるのです。では、どうしたらそのようにできるのでしょうか。

ほめるのが難しい理由

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2:3)

と聖書は語っています。逆に言えば、私達のしていることの多くは、自己中心や虚栄から出ていることが多いということです。自己中心の心は、いつでも自分より上か下かで相手をみてしまいます。また、この言葉の原語(ギリシャ語)には党派心という意味があり、自分の意見に固執して自分の仲間を作ろうとすることをいいます。一旦自分の意見を出すと、あとでそれがすこしおかしいと思っても、あくまでもはじめの意見に固執してしまいやすい部分がす私達にはあります。自分の方が正しいという考えに固執することから解放されていく必要があるのです。また、虚栄とは、「根拠のない誇り」という意味で、本当は持っていないのにそれがあるかのようにうぬぼれたり、いばったり、人にほめられようとうわべだけみせかけることを指します。

聖書は、そのようなものを捨てて、「互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と語っています。自分の方が正しい、自分の方が上だという気持ち(すなわち高慢な心)があると、中々人の良いところを見ることができません。人が何か素晴らしいことをしても、「たいしたことない。自分だっでそのくらいできる。」と思い、その良さを素直に認めることができません。

また逆に自分がダメだと思っていると、「どうせわたしなんかダメだ」「自分とは関係ない」と思い、これもまた、素直に相手をほめたくないのです。子供に対しても、少しできると、もっとがんばりなさい(私の子供だからできるはず!)と更に要求し、反対にできないと、どうしてできないの(どうして私に似たの、そうであって欲しくない)と自分がいやだと思うことを子供にぶつけたりします。これらは皆「自分」中心からくることです。「自分」というものを捨てて相手をみる時、よいところは良いと素直にほめることができるようになるのです。

どうしたらほめることができるか

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」(ピリピ2:4〜5)

人をほめることができるようになるためには、本当の意味で相手のことを思うことが必要です。だれも好き好んで人にきらわれるような生舌に落ち込んでいくのではありません。もし自分がその人と同じ背景をもっていたらどうだったろうか、と立場を置き換えてみる時、自分はその人ほどにがんばって来られなかったかもしれないとさえ気付きます。自分が恵まれていたからこそ今の状態にあることを思えば、自分を誇ることはできません。それでも誇るとすれば、それこそが「根拠のない誇り」(虚栄)です。本当の意味でその人の立場にまで立つ時、その人のよいところを認め尊敬することもたやすくなるのではないしょうか。

聖書は、イエス・キリストが私達のためにそのような模範となって下さった、と語っています。神である方が、自分の立場を捨てて私達のところにまで降りて下さり、人々のために仕え、最後には私達の罪の身代わりとなって十字架にまでかかって下さった。だから私達もまた、自分中心を捨て、他の人に仕える者となりなさい、と語っているのです。

子供がほめてもらいたいと思っているのがわかってもなお、私達は中々ほめることさえできません。けれども、もし本当にその子を愛しているのなら、願っていることをしてあげる(=仕える)ことは、難しいことではないはずです。もしできないならば、「私はほめることができません。本当に良いところを見つけてほめられるようにして下さい。」と祈り、その力を神様から頂きながら、良い人間関係を築く一人一人とさせて頂きたいものです。

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