暗闇を照らす光





この世の暗闇



「エスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8章12節)

今や日本のどこででもクリスマスを祝うようになりました。でも、その本当の意味は案外わからないでいるのではないでしょうか。クリスマスとは、どういうことでしょうか。聖書は、この世にある多くの暗闇に本当の光をともすために、神様がクリスマスをお与えになったのだと語っています。

この1年は、皆さんにとってどんな年だったでしょうか。社会全体を見れば、暗いことの多い1年でした。一方、私達自身の心を見ても、暗闇を歩んでいると感じたことも多かったのではないでしょうか。自分の人生 ― 自分で何でもできると思ってきたはずなのに、現実にはどうしようもない自分の姿を見ることがあります。

良いことをしようとしてもできない自分 ― 自分の夫や子供、あるいは親族に対して、こうすればうまくいく、良くなるとわかっていても、自分の感情がそれに打ち勝つことができず、苦しさを覚えた方がいらっしゃるのではないてしょうか。かの孔子でさえ、「自分の本当の悩みは、徳を身につけようとしても身につかず、いくら学んでもわからず、正しいことを聞いても行えず、又悪いところを改めることができないことだ。」と語っています。聖書は、人の心について次のように語っています。

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7章20〜23節)

私達がもし自分を正直に見つめるなら、自分はどうにもならないものであり、良いことをしようとしても、正反対の思いが心を占領して、自分の心をメチャクチャにしている現状を知るのではないでしょうか。『人の舌は人生を焼き尽くす車輪だ』と言われます。言ってはならないとわかっていても、フッと口から出てしまい、今まで自分が大切にしてきたものを台無しにしてしまう − 理屈はわかってもどうにもならない − それが暗闇なのだと聖書は語るのです。




暗闇を照らす光



このような自分の姿を見るとき、ある人は真剣に悩み苦しみ、何とかそれを打ち破ろうとがんばります。しかし多くの場合、結果としてノイローゼのように自分をいじめ抜いて、生きていくことができず、自殺しか考えられないような状態になってしまうことがあります。ある方が、「もし人生を真面目に考えたら自殺するしかない。」と言われたことがありました。

確かに、もし私達が自分のしてきたことを一つ一つあげつらっていくならば生きていけない、だから、人はまあこんなものと割り切り、あきらめて生きるしかない − それが私達の人生であったのではないでしょうか。しかし、そのような暗闇の中に光である方(キリスト)が来られ、しかも、闇はこの方に打ち勝たなかったと聖書は語っています。キリストご自身も、『私は世の光(世の暗闇に光をともす者)です。』と語られました。

あなたの心には暗闇があるでしょうか。もしあるならば、ぜひこの方を心に迎えて頂きたいのです。キリストを心にお迎えする時、確かにあなたの心から暗闇が消え始め、更に、光が増し加われば加わるほど、暗闇はいよいよ薄くなって、そこに明々と大きな光が輝き始めるのです。キリストは、私達の心の中に、愛の光をともそうとしておられます。“光”― それは大きな希望を与えます。キリストが、この世のすべての人の心に、生きる希望と喜びと力を与えるために来て下さった。それがクリスマスなのです。




光なる方(キリスト)をお迎えする



『黒い土に根を張り、どぶ水を吸って、なぜきれいに咲けるのだろうか。私は大勢の人の愛の中にいて、なぜ醜いことばかり考えるのだろう。』これは、星野富広さんの詩画集の中で、花菖蒲の絵に添えられた詩です。星野さんは事故で首の骨を折り、手も足も動かなくなってしまいました。あるとき病院のベッドの側で一生懸命世話をしてくれるお母さんに、自分のイライラをぶつけて、つばをはきかけてしまいました。 ― しかしそのつばは自分にもどって来てしまった、と本の中で語っておられます。

そんな彼が神様にふれ、出会った時に、少しずつ変わり始めました。今では彼の生まれた村に、彼の詩画を飾る美術館ができ、何十万の人々が訪れています。そして、多くの人が絵の前でしばし足を止め、励ましを受け、又、涙しておられます。彼が、この光なる方(キリスト)を自分の救い主として受け入れた時から、彼の生涯に大きな変化が起こっていたのです。あの孔子が語ったように、私達はどんなに自分を変えようとがんばってみても、自分を変えることができない ― それが本当の姿ではないでしょうか。しかし聖書は次のように語っています。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(第Iヨハネ1章7節)

キリストはすでに救いの業をなして下さり、誰もが心にその光をいただくことができるようにして下さっています。キりストの十字架は、私達すべての罪の身代わりであると聖書は語ります。あなたの苦しみ、悩み ― すべての解決をキリストが既になして下さり、私達の心のどうしようもないドロドロしたものをきよめて下さるのです。キリストは、私達の心の外に立って、戸をたたいておられます。私達が心の扉を開いてこの方をお迎えするなら、キリストは私達の心に来て下さいます。クリスチャンになるとは、あれをする、これをするということではありません。ただこのイエス・キリストを自分の罪からの救い主として、罪を赦しきよめる方として、自分の人生を真っ直ぐにして下さる方として、そして又、心に希望と光と命を持つ人生へと変えて下さる方としてお迎えすること、「私を助けて下さい」とお願いすることなのです。その時、それまで自分の力でできなかったことが、神様の力によってできるように変えられていく ― これが神の御業です。イエス・キリストは、「あなたの心の中に私を受け取って、新しくされた人生を歩んで欲しい。」と、お一人お一人に願っておられるのです。




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