クリスマスを迎える心





本当のクリスマス



「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)

「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。・・・」(マタイ2:1〜5)

世界で初めのクリスマスは、ユダヤのベツレヘムで、マリやとヨセフと生まれたばかりのイエス・キリスト、それだけの小さな小さなクリスマスでした。しかし、このクリスマスは、今や全世界で祝われる世界的行事となりました。どうしてでしょうか。それは、このイエス・キリストを通して、世界中の多くの人が人生に希望と光を見いだすようになったからなのです。

イエスは、

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

と語られました。その言葉の通りに、キリストは、その30数年の生涯を通して、愛によって人々をつくりかえ、新しい人生に歩み出させてくださったのです。そして、ついには、エルサレム郊外で十字架という極刑につけられて死にました。それは、世のすべての人の罪を身代わりに負い、その罪を全部解決するため、人々が罪から解放されて、新しい人生を生きることが出来るようにするための十字架でした。

しかし、それだけではありません。キリストは3日の後によみがえられたのです。それは、イエスが本当に神の子・救い主であり、死を打ち破ったお方であることを示すためでした。この方は、今も生きておられ、私たちに新しい人生を与えようと、招いておられます。本当のクリスマスとは、キリストがこの世に来てくださった意味を深く悟り、今までとは違う新しい命‐闇の中に光を頂く人生を受け取っていく時なのではないでしょうか。一番初めのクリスマス以来、多くの人々がこのキリストに出会いました。ある人はこの方を心から受け入れ、ある人は拒みました。私たちは、クリスマスをどんな心で迎えたらよいのでしょうか。今から約2000年前、キリストの誕生を迎えた人々の姿を通して、共に考えてみたいと思います。




キリストを迎えた人々



キリストがお生まれになった時、ユダヤを治めていたのはヘロデ王でした。彼は、東方の博士から『ユダヤ人の王がお生まれになった。』と聞いて恐れ惑った、と記されています。しかし、私たちの心にも、このヘロデのような心があるのではないでしょうか。ヘロデは、自分の権力が奪われるのではないかと恐れたのです。自分に都合の良いうちはよいが、自分の地位を脅かす者が現れたなら、抹殺してやろう。自分こそがすべてと、自分を神とする時、そういう者の心は、自分より大きい者が現れたらどうしようと、恐れと惑いでいっぱいになるのです。

どんなに良きものが現れたとしても、自分こそがすべてだと、その考えに固執している限り、私たちはそこに良いものを受け入れることはできません。また、エルサレム中の人々も、王と同じように恐れ惑ったとあります。ヘロデの時代、人々は「ヘロデの息子であるよりは、ヘロデの豚であった方がよい。」と言っていました。ヘロデは猜疑心が強く、平気で人を殺していました。ですから、決して平和で安定した世界ではなかったのです。けれども、もしヘロデを怒らせたら大変なことになる―ヘロデを恐れるあまり、彼らのすぐそばに来られていた救い主を求めようとはしなかった、彼らは、吹けば飛ぶような小さな今の安定を、ただ維持しようとしがみついていたのです。

次に、祭司長や律法学者はどうでしょうか。彼らは、救い主はどこに生まれるのかと問われれば、すぐに答えられるほどの知識を持っていました。しかし、このキリストが来られたことを聞いても、そこを動こうとしませんでした。彼らの知識は何の力にもなりませんでした。知識は決して人を動かすものではないのです。しかし、ここに、ほんのわずかの知識を持っていたにすぎない人々がありました。東方の博士達です。遠く東の国で、大きく光る星を見たとき、ユダヤの国に全世界を救う救い主が生まれるという噂を思い出しました。彼らが知っていたことは、ごくわずかでした。しかし、彼らは、真理のためであるならば、どんな犠牲を払っても惜しまないという思いで、どこに行くかあてもないまま遠い旅路に踏み出したのです。星が彼らを先導したと記されています。そして、彼らは生涯決して忘れることの出来ない経験、自分の心の中に光がともるという経験をしたのです。どんなに大きな喜びが彼らの心を満たしたことでしょう。




救い主キリスト



イエス・キリストがこの世に生まれたということは、単なるおとぎ話や作り話ではありません。歴史がB.C.(Before Christ = キリスト以前)とA.D.(anno Domini = 主の年。主がお生まれになって何年かを表す)とに二分されているのは、この方の生涯を起点にしていることをご存知でしょうか。もし私達が、心を開いてこの神を求め、一歩足を踏み出すなら、『インマヌエル= 神は私たちとともにおられる』といわれる神が、私を愛し、私に新しい人生を与えてくださる―心がそんな希望と喜びに満たされるという経験を、あなたも持つことが出来るのです。聖書は語ります。

「見よ。私は、戸の外に立ってたたく。誰でも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

これは、私たちの心のことをいっています。すなわち、もし私たちが心を開いて、「そういう救い主がいるなら、本当に私も新しい人生を歩みだしたいと願っています。どうか私を救ってください。私は自分で自分をどうすることも出来ません。許そうとしても許すことができない。変わりたいと思っても変わることが出来ない。力を持ちたくても持つことができない。私は本当に惨めな弱い人間です。」と神様に申し上げるなら、神様はあなたの内に入って下さり、あなたの弱さを私が担う、と言ってくださるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

もしあなたが心を開いて、イエス・キリストを救い主として受け入れるなら、あなたが今まで持ってきた心の重荷はストンと落ちて、新しい人生が内から始まることを、必ず経験なさることでしょう。イエス・キリストは、『世の罪を取り除く神の子羊』と呼ばれています。たとえあなたの罪がどれほどのものであったとしても、神は、その一人子イエス・キリストによって、そのすべての罪を赦し、あなたに新しい命を与えてくださるのです。




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