人を生かす言葉





魅力的な人



「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)

今日は、“ことば”ということに関して、魅力的な生き方するためにはどうしたら良いかを考えてみたいと思います。私達の言葉には、大変な力があると思わないでしょうか。時には、たったの一言が心を暖かくし、慰め励まし、その人に力を与えます。しかし、また同時に、言葉は人の心を突き刺して、その人の命を奪うことさえもあります。たとえ直接手を下さないとしても、それは殺人と全く変わりません。言葉は使い方によって、素晴らしい道具にも、恐ろしい凶器にもなるのです。もし言葉を正しく使うことが出来るなら、誰もが魅力的な人になれるでしょう。

魅力的な人とは、どんな人でしょうか。その人のそばにいると、何か心が暖められ励まされて、自分は自分でいいんだと自信がついてくる、― もし皆さんの周りにそんな人がいたら、その人は本当に魅力的な人、あなたもそのような人になりたいと思うのではないでしょうか。聖書は、“聞く人に恵みを与える”言葉を語りなさい、と言っています。この“恵み”とは、原語(ギリシャ語)では“魅力”という語に置き換えることのできる言葉です。人に恵みを与える言葉とは、言い換えれば、聞く人の魅力を引き出す言葉ということです。その時実は、その言葉を語る私達自身が、魅力的な人となっていくのです。




人を生かす言葉



しかし、現実には、人を生かし徳を養うような言葉を話すのがどんなに難しいかを、私達は日々体験しています。私達はしばしば「傷つけられた」とか、「ヒドイことを言われた」とか言いますが、よく考えてみれば自分が同じことを周りの人にしているのに、中々気がつきません。先日子供がある失敗をした時、私は思わず「何やってんの!」「おまえはいつもそうなんだから。何でもっとしっかりしないの!」と叱ってしまいました。相手がそれで反省して良くなるかと言えば、決してそうではありません。落ち込むか、反抗するかのどちらかです。決して徳を養うような言葉とはいえません。

それからしばらくして、今度は私が全く同じ失敗をしてしまいました。その時、ハッと気付いたのです。あのとき子供に言った言葉を、もし今自分も言われたらどうだろう、と。失敗した本人が、「どうしよう」と一番ショックをうけていたはずなのに、その上に私が更にヒドイ言葉を浴びせたのです。もしあの時に、子供の気持ちにたって彼を引き立てるような言葉をかけることが出来たなら、子供も「今度は気をつけよう」と素直に思ったことでしょう。本当に私達は、自分の過ちに気付かずに、平気で人を傷つけてしまうことが多いのです。

マザー・テレサが、次のように語っています。『親切で慈しみ深くありなさい。あなたに出会う人がだれでも、前よりも気持ちよく明るくなって帰れるようにしなさい。親切が、あなたの表情に、眼差しに、ほほえみに、暖かく声をかける言葉に表れるように。… 世話をするだけでなく、あなたの心を与えなさい。』このような人が側にいてくれたら、どんなにうれしいでしょう。しかし、もし自分がそうなろうとしたなら、とても出来ないとも思うのではないでしょうか。




魅力的に生きるには



私達が魅力的になるためには、人の徳を養うような人に変わっていくことが必要です。しかし同時に、それはとても出来ないこと、無理にがんばって続けようとすれば、自分自身が大きなストレスをため込むことになる、という現実をも覚えるのです。では、どうしたらよいのでしょうか。聖書には、次のようにかかれています。

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(第Iペテロ4:10)

私達は、“神様から頂いた恵み( = 魅力)の管理者”だ、というのです。言い換えれば、私達には神から与えられた魅力があるということです。あなたは、このことを知っておられるでしょうか。私達は、自分の中の良きものに案外気付いていません。私達の多くはマイナス思考を持っていますから、人と比較しては、自分には良いところなどない、と思ってしまいがちです。そうすると劣等感や妬みなどを持ってしまい、素直に人の良いところを認められなくなります。

自分の魅力を認められるなら、人の魅力も認められます。ただし、ここで気を付けなければならないのは、“恵みの管理者”とは、所有者ではないということです。自分のものと思うところには、思い上がりや高ぶりがでてきます。しかし、それは神様から与えられたものであって、私達はその管理者にすぎません。そして、管理者には、それを正しく用いる責任があるのです。与えられた賜物を生かして用いれば用いるほど更に増し加えられる、けれどももしそれを隠して用いなければ、あるはずのものさえも失われてしまう、とも聖書には書かれています。自分の内に与えられている良きもの(魅力)を認め、正しく受けとめるなら、他の人の魅力をも素直に認められるようになり、その結果、私達は、人の魅力を引き出すものとなっていけるのです。

しかしながら、ここで正直に自分をみるならば、自分自身を受けとめられない、自分で自分を許せないという思いが、心の奥深くにあることにも気付きます。多くの場合、私達はそれにフタをして見ないようにしているのですが、そこが解決されない限り、どうしても自分を受け入れることができません。しかし、こんな私達を神様はそのまま受け入れて下さっているのです。自分でも自分を許せないような私達の醜さ・汚さ、また取り返しのつかないような罪さえも、イエス・キリストの十字架によって、神様はすでに赦して下さった、と聖書は語ります。私達がこのことを受け取る時、神様は、十字架によって私たちの罪・汚れをすべて取り除き、私たち自身の持ち味・魅力を生かす人生へと歩ませてくださるのです。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)





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