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怒り

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Arcaion / Pixabay

怒り

私達は日々平穏に、心静かに暮らしたいと願い、心の平和が何よりも欲しいと思います。しかし、現実の私達の周りには、思わず怒りがこみ上げるようなことがしばしば起こります。ある人が「怒りは一時の狂気だ。」と言いました。確かに、怒っている時私達は、自分の感情をコントロールできないで、もうこれ以上言ったらおしまいだと思えること、相手を傷つけると分かっていることを、敢えて言ってしまうことがあります。自分で自分を押さえることができないのです。

私達はこの怒りに、どのように対処したらよいのでしょうか。聖書は何と教えているでしょうか。実は、聖書は怒りを全く否定しているわけではないのです。『怒っても、罪を犯してはなりません。』とは、ある意味で怒りを認めている言葉です。確かに、私達は罪や不正に対して、自分の損得を離れ、正義感に燃えて怒りを持つことがあります。ただし、その怒りをメラメラと燃え立たせてはならない、『日が暮れるまで憤ったままでいてはいけない』、と聖書は語っているのです。

「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」(詩篇16:32)

怒ったとしても、思うがままに怒りに身を任せてはならない、怒りを少しでも遅くするべきだというのです。“ここで私が言わなければ誰が言う”とばかりに、正義感が突っ走っていくと、いよいよ怒りが燃え上がっていきます。そして、私は自分に正直に生きるんだと、怒りをどんどん爆発させていくならどうなるでしょうか。・・・正常な人間関係を営むことは難しくなります。そうはいっても、怒りを無理に押さえようとすればかえって大きくなって、いったん爆発するとまるで火山の様に次々と噴火を引き起こすのです。では、どうしたら怒りを正しくコントロールしていくことができるのでしょうか。

怒りを遅くする

そのためにはまず、自分の考えが正しいと過信して、自分の怒りを正当なものだと思い過ぎない様にすることが大切です。実際のところ、私達に見えるものはごくわずかです。相手の立場になってみれば、あまり言えなくなることも多いのです。アメリカ大統領だったジェファーソンは、「怒れる時には10数えよ。怒りが更に甚だしい時は、100数えよ。」と言いました。確かにそのくらい待てば心も落ちついて、同じことでも思いやりのある言葉がでてくるのではないでしょうか。あるいは、怒っている相手に手紙を書くのもいいでしょう。ただしすぐには出さないで、3日ほど寝かせておいてから、もう一度読んでみて下さい。これではとても出せないと思うと共に、それだけで自分の心が落ちつくことも多いのです。けれども、これだけでは本当に怒りをおさめることができないことも、また事実です。聖書は次の様に語っています。

「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」(ローマ12:18〜19)

「・・・怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」(第Iテモテ2:8)

天地を創られた神は、すべてをご存知であり、それに正しく対処する事ができる方です。自分で怒りを発するかわりに、そのことをすべて神にお任せするのです。私達が自分でしなくて良い、いや、してはならない。自分の怒りに任せるかわりに、それを祈りに変えなさい、と聖書は語ります。怒りを心の中にためておくと、いつか爆発します。しかし、思いのたけを祈りに変えて、人にではなく神に向けるなら、私達の心は静められていくのです。

互いに赦しあう

「・・・(神に)愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主(キリスト)があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。・・・キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。・・・キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ・・なさい。」(コロサイ3:12〜16)

あなたは、神様に愛されている存在であることを知って下さい。イエス・キリストは、あなたを愛するが故に、あなたの全ての罪・過ち・汚れ・醜さを赦すために、あなたの身代わりとなって十字架で死んで下さった、と聖書は語ります。もしあなたがそれを受け取るならば、あなたの内に他の人を赦す力がでてくるのです。

私達は、自分でそれなりにがんばっているという気持ちがあるので、罪や欠けを指摘されても、素直に認めることができません。でも、私達は、自分が非難しているのと同じ様なことを、案外自分でもしていることが多いのです。自分もまた足りない者であることを認めると共に、そんな自分が赦されていることを知るならば、怒りも鎮められ、相手を思いやる心(深い同情心)もでてくるのです。

キリストは、“どんなことがあっても変わらない平安を、あなたがたに残します。”と語られました。怒りがこみ上げてきた時、それを自分でおさめようとするかわりに、「この怒りのただ中に、あなたの平安(キリストの平和)をもたらして下さい。」と祈ってみてください。そしてさらに、聖書のことばを何度も反芻し、読んでいく内に、あなたの心が不思議な平安に支配されていることに、ふと気づかれることでしょう。怒りは結局のところ、相手よりも自分を苦しめる結果になることが多いのです。私達は、怒りをおさめ、しずめていただく生き方を、共にめざして歩みたいものです。

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