健全な自己像





健全な自己像



私たちが他の人と良い人間関係を築いていく上で、とても大切な役割を果たすものに、健全な自己像を持っているかどうかということがあります。私たちが自分を正しく受けとめていないと、人の評価や人の目に大きく影響され、その結果人との関係が窮屈になったり、またそれに縛られたりしてしまいます。

あなたの自己像はどうでしょうか。あなたが普段自分をどう見ているかは、人からほめられた時にあなたがどう反応するかに自然にでてきます。例えば、あなたがお友達を食事に招いたとします。その時、「まあ、あなたってすごい料理人ね!」などど言われたらどうでしょうか。ある方は、「あら、そうかしら」とニコッとするかもしれません。でも、それを「なんて嫌みなのかしら。」と思う方もいるかもしれません。あるいは、ほめられたことがかえってプレッシャーになり、「いつもきちんとしていなければお呼びできないわ。」と、苦しくなってしまう方もあるでしょう。また逆に、高慢になってしまう人もあるでしょう。自分を正しく受けとめていないと、ほめられることさえもかえって苦しみを生み出してしまう結果となります。

もし私たちが自分を正しく受けとめられているなら、人からほめられてもけなされても、それによって自分が大きく左右されてしまうことがありません。ほめられた時にはそれを素直に喜んで、自分の栄養にしていくことができるのです。しかし現実には、私たちが健全な自己像を持つのが困難であるともいえます。なぜなら、私たちの多くは、小さい時から「そんなことをしたら、笑われるよ。」とか、「はずかしいよ。」、「お巡りさんに叱られるよ。」などという風に、正しいか正しくないかというよりは、人がどう評価するかを基準に物事を教えられてきたことが少なくないからです。その結果いつの間にか、他の人と比べて自分がどういう者であるか判断し、見ていくという習慣がついてしまっているのです。しかし、人の評価は本当に勝手でコロコロ変わります。ですから、もしそれを基準にするなら、私たちの生き様もまたコロコロと変わる確信のない、いつもビクビクしたものになってしまいます。でも、人まねでなく、自分なりに確信のある生き方、どこででも本当の自分でいることができるなら、そこに本当の生きる喜びがあるのではないでしょうか。では、どうしたらそのような健全な自己像を持つことができるのでしょうか。




受け入れる



私達が自分を正しく受け入れられるかどうかは、まず自分が誰かから評価されたり裁かれることなく、そのまま受け入れられるという経験をどれだけ持っているか、に関係します。

例えば、あなたの子供が「Aちゃんが私のお人形とっちゃった! あんな子大嫌い!」と泣きながら帰ってきたとします。あなたならどう声をかけるでしょうか。「いつもそうやってメソメソして! もっとしっかりしなさい!」と言う方はどれ位いらっしゃるでしょうか。あるいは、「あなたが先に何か悪いことしたんじゃないの?」とか、「そんなにメソメソするくらいだったら、やり返して来なさい!」はどうでしょうか。

ではここで、もしこの言葉を自分が言われたとしたらどう感じるかを想像してみて下さい。「自分は受け入れられていない」「自分の気持ちは分かってもらえない」と感じるのではないでしょうか。子供が親の所に来るのは、悲しい自分・怒っている自分を受けとめてもらいたいからです。そこで「そうなの」と受けとめてもらえるなら、心が柔らかくなり、さらには、自分の悪かった所を素直に認めて相手を思いやることもできるのです。ところが、親としては決して悪い気持ちからではなく、子供にしっかりしてもらいたくて言うのですが、いきなり頭ごなしに「あなたは・・」と言われると、子供の心にはわかってもらえないという反発心、あるいは自分はダメだという思いが出てきます。

実は、私達自身がこのように育てらた結果、健全な自己像を持つことが難しくなっており、さらにまた、親となって同じことを子供にしているのです。そんな私達に今ここで必要なのは、私達をそのままに受けとめて下さる方を知るということです。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する御自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:6〜8)




キリストの愛



聖書に、姦淫の現場で捕らえられイエス・キリストのところに連れてこられた女のことが書かれています。キリストはこの女の罪を全部ご存じでありながら、この女を責めることをせず、かえって一人の人間として大切に扱い、

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:3)

と語られたのです。私達もまた、「決して悪いことをしたことがない」とは言えないものです。たとえ人の前ではおくびにも出さないとしても、自分の心をそのまま映し出されては困る、醜いものをたくさん持っています。キリストはそれらをすべてご存じであるにも関わらず、「だからお前はダメだ」とおっしゃるのではなく、「だからあなたのために、私が身代わりになって十字架で罰を受けた。」と言い、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」と言って下さる。それが聖書のメッセージなのです。

私が何か出来る・出来ないではなく、また立派だから・良い人だからというのでもなく、ただあるがままの私を愛し、受け入れて下さる、それがキリストです。私達がこの愛を受け取るとき、私達自身もそのままの自分を受け取ることができ、それ故にまた他の人をも受けとめることのできる者へと変えられていくのです。




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