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依存的傾向の克服(責任転嫁)

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依存症

今日は、私達が積極的に生きることを妨げている原因の一つ“依存症”について考えて見たいと思います。依存症とは、元々アルコール依存症からきている言葉ですが、お酒に限らず、様々な物や人に過度に依存してやめられなくなることがあります。依存症には、例えば次のようなものがあります。

嫌なことがあると食べずにはいられない、買い物せずにはいられない。必ず後怪するとわかっていてもやめられない。(食物依存症、買い物依存症)少しでも暇があると電話せずにいられない、たとえ莫大な電話代が家計を逼迫させるのがわかっていても。(電話依存症)いつもペットのことを考えている。ペットが死んでしまったら、自分も生きていられないと思う。(ペット依存症)友人または家族といつも一緒にいないと寂しく不安。相手が自分の願い通りにしてくれないとすぐにイライラしたり、相手のちょっとした言葉で傷つき、腹を立てる。(友人依存症、家族依存症)さてあなたは、自分にも当てはまると思えることが、この中にいくつあったでしょうか。実は、私達には皆、病気とまではいかなくても、多かれ少なかれこのような依存的傾向があることにお気付きでしょうか。自分の内にもそのようなものがあることを知り、認めていくのはとても大切なことです。今の自分がこうなのは、あの人のせい、環境のせい、親のせい、だからしかたない・・・これも、依存的傾向が強い時に出てくる思いです。何かに依存しているとき、実は私達は自分で問題に直面し、自分の責任をとることを避けているのです。そのような生き方を続けていると、自分は不本意にもこうさせられてしまったという感覚がいつもぬぐえず、自分の人生を歩んでいるという満足感・充実感が得られません。このような生き方から解放され、自分らしく生き生きと積極的な人生を歩むことは出来るのでしょうか。

アルコール依存症(中毒)の父親をもった双子の兄弟がありました。幼い時から、父親が酒を飲んでは二人に暴力を振るうという環境で育ちました。やがて二人が大人になったとき、彼らはどうなったでしょうか。片方は父親と同じようにアルコール依存症になりましたが、もう一人の方は酒を一滴も飲まず、アルコール中毒予防協会で働くようになったのです。この二人のように全く同じ境遇で育てられた双子であっても、正反対の生涯を歩むことが現にあるのです。何がこの違いを生むのでしょうか。まさにそれは「こうなったのは○○のせい」と言い訳することを止めて、自分の人生は自分の責任で選びとるものと自覚するところから始まるのです。

自分の姿

「(神は)仰せになった。「・・あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:11〜12)

これは、最初の人間アダムが罪を犯した時の言葉です。自分のしたことを、他の人の責任にする。しかし考えてみれば、これはまさに私達自身の中にもある性質ではないでしょうか。さらにまた、聖書は人間についてこうも言っています。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17:9)

何もここまで言わなくても、と思うかもしれません。しかし、どうでしょう。よくよく自分の胸に手を当ててみれば、自分のことを人のせいにするばかりか、自分が苦しいとき人にも同じ思いをさせたいと思ったり、かなり陰険なひどいことを考えたり、したりしてしまう、私達の内にはそのようなものがあるのではないでしょうか。

しかも、これは良くないと思っても自分ではどうすることもできないのです。私達はこういう自分の姿を見ると余りにも苦しくなるので、つい「こうなったのはあの人のせい」「環境が悪い」などど責任転嫁して、自分自身の姿を見ないようにしてしまいます。自分の中のこうした依存的傾向を克服するためには、まず「これが私です。」と真正面から言い訳しないでみていくことが必要です。でもそれで終わると苦しくなるだけですから、次にぜひしていただきたいのは、それは自分の問題(罪・弱さ)なのだと神様の前に正直に告白するということです。実はこの時、あなたは自分の責任で人生を歩む第一歩を踏み出していることになるのです。

自分の問題

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめ てくださいます。」(Iヨハネ1:9)

“罪”などと言われると、私たち日本人はぎょっとしてしまいます。自分は警察につかまるような、そんなにひどいことはしていないと。しかし、聖書の言う罪とは、“ずれ”とも訳される言葉です。すなわち、親として、子として、人として、あるべき姿からずれている状態、・・まさしくそれは、私たちの姿です。それをありのまま神様に告白するとき、私達は赦されそこから解放される、なぜなら、イエス・キリストがそのために身代わりとなって私たちの罪の罰を受けて十字架で死なれたからだ、と聖書は語っているのです。

私は、若いとき父を憎んでいました。しかしある時ついに、父親自身に色々問題があったにしても、「親を憎んでいる」ということ自体は私の問題・罪なのだと神様の前に認めました。その時、私の内で氷が溶けていくような感覚とともに、父親への憎しみが消えていることに気付いたのです。

自分の罪・弱さを認めるのは苦しいことのように思えます。しかし、それこそが解放され、自由にされていく秘訣なのです。もしあなたが、この聖書の言葉を真剣に受け止め、従って行こうとするならば、あなたの現実の生活の中にも本当の自由と解放を味わうことが出来、そこから真に自分らしい人生が始まっていくのです。

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