尊敬する





互いに尊敬する



「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ人2:3)

私達の人間関係のなかで、大切な役割を果たすことの一つに“尊敬する”ということがあります。相手を尊敬することができるなら、その人との人間関係がうまく行くのは、ある意味で当然ともいえます。私達にとって一番身近な家族の中においても、それは当てはまります。聖書は語ります。

「あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。子どもたちよ。・・「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主(神様)の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ5:33〜6:4)

“子どもを怒らせない”とは、子どもを1人の人間として敬うことを忘れずに接しなさい、とも言うことができます。それを忘れて、子供を自分の所有物であるかのように扱う時に子供を怒らせてしまい、正しく教えることも出来なくなってしまうのです。日常生活の中で、夫婦が、また親子が互いに尊敬しあって生きるなら、そこに良い人間関係が生まれてきます。しかし、それが良いとわかったとしても、実際にはなかなか尊敬できません。遠くの人ならば、良いところだけ見ているので、結構尊敬することもできるのですが、近ければ近いほど欠点が見えてしまい、尊敬できなくなってしまうのです。

さて、あなたには尊敬できる人が何人おられるでしょうか?相手を尊敬することが良い人間関係につながるのだとしたら、どうすれば他の人を尊敬できるようになるのでしょうか?今日はそのことをご一緒に考えてみたいと思います。




尊敬できない理由



私達が他の人を尊敬できない原因の第一は、私達の“自己中心”にあるといえます。私達は自分が理解できないものを尊敬することができません。私は子供の頃、図工の教科書に載っていたピカソの絵を見て、どうしてこんな絵が芸術なのかと思いました。私には理解できなかったからです。見る人が見れば、その素晴らしさに気付くことができたとしても、自分にそれを見抜く力がなければ理解できないし、それゆえ尊敬することもできません。私達はこれと同じことを、人に対してもしているのです。自分の考え方しか受け入れられない人にとっては、尊敬できる相手がせばまります。

もし私達に、「あの人はどうも嫌だなあ」と思っている人があるとしたら、それは自分の小さい考え方に固執して相手の素晴らしさを見ることができなくなっているためではないかと、もう一度自分に問いかけてみることが必要なのではないでしょうか。自分の考え方や感じたことが絶対正しいと思う、これしかないと思う自己中心がないかどうか、自分の心に光をあてていくことが大切です。

尊敬できないもう一つの原因は“虚栄”です。広辞林によると、虚栄とは「実際の内容には過ぎた、外見上の栄華。うわべだけの美をてらうこと。見栄。」とあります。確かに私達はうわべだけのものを求めてしまいがちです。表に現れたものだけをみて人を判断して裁いたり、また自分自身も表面だけ美しく、立派に見せようとすることがあるのではないでしょうか。私達は、表面にあるものでなく、その奥にある真実なものにこそ目を留めていきたいものです。

また、私達はしばしば、優劣・勝ち負けの世界で生きています。人と比べて自分が上か下かという競争心があると、相手の良いところを素直に認められません。「いくらこれが良くてもあんな欠点があるから差し引きマイナス!」、と足を引っ張りたくなってしまうのです。私達は誰しも色々な欠点を持っています。でも、ここは優れているという部分を認め、そのところにおいて相手を尊敬して行くなら、私達は互いに尊敬することができるのです。




神のかたちに造られた人間



「神はこのように、人を御自身のかたちに創造された。」(創世記1:27)

聖書は、人間は神のかたちに造られた、と語っています。人はなぜ神を求め、生き甲斐を求めるのでしょうか? 自分はなぜ生まれたのかと思いめぐらすのでしょうか。知恵を持つ動物は他にもいますが、愛・真実・正しさを求め、世界の平和を願うのは人間だけ・・・それは、人が神のかたちに造られている証拠なのです。私達が、お互いを神のかたちに造られた尊い存在であると認めるなら、相手を敬い大切に扱うことができるようになるはずです。それを忘れたときに悲劇がおこります。数年前神戸で‘酒鬼薔薇聖人’と名乗る少年が起こした残虐な事件は、人を‘腐った野菜’としかみられなくなった歪みが生んだものといえるのではないでしょうか。

しかし、私達もまた気をつけなければ、相手を神が造られた尊い人としてみることを怠り、自分中心や虚栄からあれこれ判断してしまう危険があるのです。聖書は

『へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』

と語っています。この事を肝に銘じて歩みたいものです。しかし同時に、そうしたいと思ってもできない、それが私達の現実でもあります。その時は、尊敬できない自分の姿を正直に認めて、「私は、あの人を敬うことができません。」と神様に告白することです。その時神様はそんな私達を赦してくださり、そればかりかきよめてくださる・・そこから解放し尊敬できる心へと変えてくださるのです。

「もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Iヨハネ1:9)

自分でもどうしようもない心が神様の恵みによって変えられるとしたら、それこそが本当の奇跡といえるのではないでしょうか。




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