生きる力





何のために生きるのか



私は以前、心の中にぽっかりと大きな穴があいているような虚しさを覚えていました。色々な物があったとしても、あるいは何かが出来たとしても、それだけでは満足できない・・・。心の中に心棒となるもの、“生きがい”を求めていたのです。そして、のちに色々な方とお話しするなかで、実に多くの方々が同じような思いを抱いていることを知りました。

動物は“生きがい”を求めて悩んだりしません。人間だけが、真剣に生きようとする時「自分は何のために生きるのか」という問いに出会うのです。パスカルは「人間の心の中には神によってしか埋められない空間がある。」と言いました。人間は神によって神のかたちに似せて造られた特別な存在だと、聖書は語ります。人が物によっては真に満足出来ないのはそのためであり、さらにその心は神の所に帰るまで完全に満たされることはない、というのです。

いまから約3000年前、当時栄華を極めたソロモン王がすべてのものを手にして後語ったのが

「なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。」(伝道者の書2:11)

という言葉でした。今、日本は世界の中でも最も豊かな国の一つになりましたが、そこに住む私達の心のどこかに、このソロモンの言葉と同じ思いがあるのではないでしょうか。ある意味で、追い求めている時は幸せなのかもしれません。大変ではあってもそれなりに充実しているからです。しかし、それを手に入れてしまった後、「さて、これから私は一体何のために生きていくのか」という思いが沸いてくるのではないでしょうか。

思春期に対して思秋期という言葉があります。子育ても終わり、すべてのことが一段落した時に、これからどうやって生きていったらいいんだろうかと分からなくなってしまうのです。1998年度の日本で、交通事故死9221人に対し、自殺者は31734人にのぼるそうです。交通事故を減らすための努力が数々なされていますが、それと同じく、いやそれ以上に心のケアが必要とされていることをこの数字は物語っているのではないでしょうか。

今、学校教育の現場も混乱しており、そこから、これからの教育は「生きる力」を育てることが必要だと叫ばれています。しかし、「何のために生きるのか」という問いに、親も教師もどれだけ答えることが出来るでしょうか。「良い学校に行くため」「良い会社に入るため」という一時しのぎの答えでは間に合わなくなっているのです。私達自身がまずこの問いに対する答えを、きちんと見極めていくことが大切ではないでしょうか。




他者のために生きる



では、“生きがい”とはどこにあるのでしょうか?私達の生活の中に一つのヒントがあります。私達が本当に充実感を持つのは、自分がだれかのために役立っていると感じる時ではないでしょうか? 先日新聞で、1人の若者の書いた投書を読みました。ある日彼が電車でおばあさんに席をゆずった時のことです。おばあさんは大層喜んで何度も何度も彼にお礼を言い、おまけに自分が持っていた飴を一つくれたのだそうです。席をゆずっただけでこんなにも感謝されて、自分はそのおばあさんから何倍もの宝を頂いた気がすると彼は書いていました。その若者は自分が役立ったことが何よりも嬉しかったのです。

実は普段うっかり見逃していますが、私達の心の内には、自分が損をして他の人が得することが嬉しいという心根があり、そこに私達の生きがい・生きる力の根本があるのです。反対に自分の得することばかりを追い求め、自分中心の生き方をしていくならば、だんだん人が自分から去っていき、多くのものを失う結果となります。

「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。」(箴言11:24)

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38)

見返りを求めないで与え、他者のために生きる時、かえって自分が豊かに生きる力が与えられていくのです。とはいえ、そうは言っても人間とは結構非情なものです。いくら見返りを求めないとはいえ、与えても与えても、なお裏切られることもあるのです。そんな時がっかりして、もうイヤだと、せっかく他者のために生きるという充実の道があるのに止めてしまう。するといよいよ心は貧しくなるのです。実は、本当の「他者」とは誰なのか。それは決して裏切ることのない方『神様』であり、この方ために生きる時私達の内に本当の生きる力が与えられていくのだ、と聖書は教えているのです。




神様のために生きる



「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Iコリント10:31)

神様のために生き始める時、私達の内に裏切られることのない安心感・充実感が満たされてきます。神様のために生きるなどと聞くと、まるで自分の個性がなくなってしまうかの様に思うかもしれませんが、そうではありません。むしろ、私達を『高価で尊い』と言って下さる神様の前に生きる時、人の目を恐れたり流行に振り回されるのではない、本当の自分らしさが生かされてくるのです。

趣味に、仕事に、目標のために一生懸命がんばっても、自分が得をするために生きるだけなら、後に虚しさが残ります。自己中心は、私達の貧しさ・虚しさの根源なのです。しかし、神様のために生きる時、神様が私達に生きる力と喜びを与えてくださり、しかもそれはただ受けるばかりのものではなく、私達の内から泉のようにフツフツとわき出てくるのだと、聖書は語っているのです。

「わたし(イエス・キリスト)が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)





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