心の許容量





心がイライラする時



私達の普段の生活の中で生じる問題の多くは、特別に大きな問題というよりはむしろ、ちょっとしたご主人の言葉とか、子供の態度とか、そういったものが結構私達の心をイライラさせ、煩わせているのではないでしょうか? 私達の生活をもっと安定したものにしていくためには、こうした事にどう対処したら良いかを学ぶことが大切になってきます。この事を考える時まず第一にとても大事なのは、私達がイライラしてしまう時、その事柄の本当の問題はどこにあるのかということに目を向けて、それを理解していくことです。

そのことを考える手がかりとして、例えば、誰かの言葉で自分がイライラするのはどういう時かを考えて見ましょう。家族や友人があなたに向かって「ほんとに助かるわ!」とか「あなたっていい人ね」と、良い評価をしてくれる時に心に問題を感じる人はまずいないでしょう。(嫌みたっぷりに言われたなら別ですが。)でも、それがひとたびあなたを非難する言葉になったとしたらどうでしょうか?そのことがどうも心にイライラを起こし、だんだん我慢しきれなくなり、時にはそれが爆発して言わない方が良い言葉をつい口に出し、それがさらに問題を大きくしてしまうということになるのです。その時爆発した当人が思っているのは、相手があんなことを言わなければ、こんなにイライラすることはなかった。怒らせるようなことを言った相手が悪いんだ、ということではないかと思います。




本当の問題



ところが、同じことを言われても、それを大変問題に感じてしまう人と、「ほんとにそうよね」などとさらっと認めて、ほとんど問題を感じない人とがいるのも事実です。それはなぜでしょうか。実はこの事は、自己受容ということに関係しているのです。私達が自分の良いところも悪いところも含めて、自分というものを正しく受け止めることができているなら、人からかなりきつい言葉を言われても素直に受け入れることができるのです。しかし反対に、自分を受け入れられない人は、ちょっとした批判の言葉にも拒絶反応がおこってしまいます。すなわち、私達の心には相手の言葉や態度をどれだけ受け入れられるかという許容限度があって、ある人の許容限度は大きく、ある人のは小さいということなのです。ですから、他の人は何の問題も感じなくても、ある人にとってはその許容限度を越えてしまい、心に大きな問題を感じてしまうのです。

心がイライラする状況になった時、その原因はどこにあるのか・・・あの人、この人の問題ではなくて、それは実は自分の問題なのだという認識を持つことは、問題を解決するための糸口となります。それを、夫が、子供が、あの人がと言っているうちはなかなか解決がつかないばかりか、その人へのイライラをずっと持ち続け、やがて顔を見るのもイヤという気持ちにまでなってしまうのです。でも、この一つ一つの問題は自分自身のこと・・許せない、受け入れられない、許容限度を越えているという自分の問題・・・問題を持っているのは自分なんだということを、まず知ることが解決への早道です。

でも、そうすると私達が次に陥りやすいのは、「じゃあ私が悪いのね」「どうせ悪いのは皆私よ」と、意固地になってしまうことです。これは一見謙遜に見えても、本当の所は形を変えた攻撃であり、なんの解決にもなりません。あるいは、本当に自分の悪い所を認めて、一生懸命がんばって何とかそれを直そうとするかもしれません。でもどんなにがんばって我慢しても我慢には限界があります。3,4日もすると、前よりもひどい態度がでてしまい、かえって問題を大きくしてしまうのです。これでは本当の解決にはなりません。ではどうしたら良いのでしょうか?聖書は次のように語っています。




ずれた心



「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Iヨハネ1:9)

聖書でいう『罪』という言葉には、“ずれ”という意味があります。本来あるべき姿から、親として、妻として、子供として、人間としてずれている・・それが罪の姿なのです。

例えば、子を持つ者として「自分は理想的な親だ」と思う方はおられるでしょうか? そうありたいとは願っていても、現実はそこからずれているというのが本当でしょう。許すことが出来なくてイライラしている自分の心を、これは私の問題ですとありのまま正直に、「私は今イライラしています」「許せません」「傷ついています」と神様に申し上げるなら、神様はその“ずれ(罪)”を赦し、きよめて下さる、これが聖書の約束です。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6〜7)

こんなことを言っては、などとあれこれ心配しないで、許せないなら許せないと自分の心を正直に神様に申し上げる。と同時に、「でも、それは私のずれた(罪の)心です。本当は許せた方がいいのですから、このずれた心をきよくして私を変えて下さい。」と自分の限界を認めて、神様にお願いしなさい、というのです。その時、神様は私たちの心を変えて下さる・・・それは何千年にもわたって、この聖書の神を信じる人々が実際に体験してきたことなのです。

自分の心が苛立つ時、相手を攻撃することで自分の心の問題を処理しようとしたり、必要以上に自分を責めたりするなら、かえって一層相手との関係がこじれてしまいます。けれども、それが自分自身の心の許容眼度を越えたためであることを認めて、神様に「助けて下さい」と祈るなら、神様は私たちの心を落ち着かせて下さり、相手の気持ちや思いを正しく理解し受け止めて、良い人間関係を築いていく者へと私たちを変えて下さるのです。




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