イースター(復活祭)





イースター(復活祭)



先日、教会ではイースター(復活祭)を祝いました。良く知られているように、クリスマスはイエス・キリストが救い主としてこの地上にお生まれになった事をお祝いします。それに対して、イースターはそのキリストが十字架にかかって死に、3日目によみがえった事を覚えて祝う、教会にとっては特別に大切なお祝いの時なのです。

十字架というのは死刑執行台、普通なら隠してしまいたいような醜いものです。しかし教会では、それを敢えて一番目立つ所においています。なぜなら十字架にこそ教会の源である一番大切なものがあるからなのです。

とはいえ、死人がよみがえる、復活するとは、普通では考えられないことです。実際、キリスト御自身から「私は捕らえられて十字架にかけられる。そして、3日目によみがえる。」と何度も聞かされていた当時の弟子達でさえ、 そのことを全く信じることができなかったのです。ですから、私たちが今その話しを聞いて、バカバカしいと思ったとしても当然だといえます。

弟子達は、キリストが捕らえられた時皆逃げ出してしまい、誰も入って来られないように戸程まりをした部屋に隠れてしまいました。ただ一人様子を伺おうと後から付けていったペテロでさえも、周りの人々から「あなたもイエスの仲間ではないか」と問われると、「そんな人は知らない。」と呪いをかけてまで誓ったと、聖書は正直に記しています。

イエスが様々な奇跡を行い、波や嵐さえも一声で静める事ができるのを見て、弟子達は「この方こそ、本当の神様だ。何があっても命がけで従って行こう。」と心から思っていたことは、恐らく事実だったでしょう。でも、現実には彼らはそんなに強くはありませんでした。いざ本当にイエスが捕られられ十字架につけられてしまうと皆逃げ出し、すっかり恐れて閉じこもってしまったのです。しかし、まさにこれが人間の現実の姿ではないでしょうか。心の中では本当に真実であろう、正しくあろうとしていたとしても、現実を目の前にするとそう正しくは歩んでいられない、いざとなると自分の身かわいさのために、友人であれ、親戚であれ、だましたり裏切ったりすることもある・・・悲しいけれどもそれが人間の現実であり、私達自身もまた同じ様な弱さを持っているということを認識する必要があるのです。

しかし、そんな弱い弟子達が全く変えられていきました。それは、私達もまた変わることができるという事を意味します。いったい何が彼らを変えたのでしょうか。




キリストの復活



キリストは金曜日の朝九時に十字架につけられ、午後三時に息を引き取りました。イエスの遺体はその日の内にアリマタヤのヨセフという人の墓に葬られ、墓の入り口には大きな石がたてられ、更にだれも遺体を盗む事のないようにとローマ総督の封印がおされました。ところが三日目、すなわち日曜日の朝早く、墓の封印が破られて石が取りのけられ、墓の中にはキリストの体に巻かれていた亜麻布だけが残されていたといいます。

キリストは復活し、その後多くの弟子達の前に現れた、と聖書は記します。そればかりか、恐れ逃げ隠れしていたあの弟子達が、大胆にも「キリストは復活した」と人々に伝え始めたのです。彼らのメッセージの中心は「あなた方が十字架につけたイエスは、よみがえりました。そして今も生きておられ、あなたを救うキリスト(救い主)となられたのです。このキリストを信じるならあなたも救われます。」ということでした。特に『復活』の事を語っために彼らの多くは捕らえれられ殺されていきました。もしキリストの復活が弟子達の作り話だったとしたら、彼らはウソのために死ぬことができたでしょうか。やがて、この弟子達の話しを聞いてキリストを信じた人々は、その人生が内側から変わり始めました。ちょうど弟子達が変えられていったように。




新しく生まれる



「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(IIコリント5:17)

聖書は、『人はだれでも生まれ変わることができる』と語っています。“だれでも”です。例外はありません。条件は『キリストのうちにあるなら』、言い換えると、キリストを信じ自分の救い主として受け入れるなら、人は新しく生まれ変わることができるというのです。その秘訣は、十字架にあります。

私達は小さい時から、神様はバチを当てる方と教えられてきたかもしれません。しかし聖書は、『神様は私達を恵もうと待っておられる』『神は私達を愛しておられる』と語っています。それなのに、その神様の愛が私達に届かない。それは私達が罪を持っているからだ、と聖書は語ります。しかし、キリストが私達の罪を負って十字架にかかり、身代わりとなって罰を受けて下さった。だから「私の罪を赦して下さい」とお願いするなら、私達の罪は赦されきよめられて、神様の力を受けることができる、というのです。

飲む打つ買うと極道の限りを尽くした元ヤクザが、キリストを信じて全く変えられ、今は牧師としてキリストの救いを伝えているということを、先日テレビで紹介していました。彼は社会のゴミ、クズと言われた自分が救われた、今は本当に生きる喜びがあると語っておられました。どうせ私の人生はこんなものと希望を失いかけている方がもしおられるなら、ここに希望はあるということを、ぜひ知って頂きたいのです。

私達は気付かないうちに、色々なものに縛られています。 本当はこうしたらいいのにと思っても、人の目を気にして、自分か正しいと思うことができないという束縛はないでしょうか。本当はここで相手を許したら物事は解決すると分かっていても、どうしても許すことができない。ある人をどうしても愛せない。ねたみや嫉妬、憎しみがとれない。プライドや競争心など、私達は色々なものに囚われていると思われないでしょうか。しかし、このキリストのうちにあるなら、あなたは自由になる、新しく生まれ変わることができると、聖書は約束しているのです。

「もしあなたがたが、わたし(キリスト)のことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ローマ8:31〜32)





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