存在感





自分の存在感



最近、“一七才”が1つのキーワードとなるほどに、この年頃の若者が起こす事件が続きました。その背後に共通するのは自分の存在感の希薄さだと指摘されています。ある少年は“自分が透明人間のようだ”という言葉で、それを表していました。人が死んだらどうなるのか? 何日かは親しい人が泣くかもしれないが、5年か10年もすればそれも忘れ去られて、何もなかったかのように時代が過ぎてゆく・・・なんだか本当にむなしい、何のために生きているのかわからない、と彼は語っています。

しかし考えてみれば、それは17才だけの問題でしょうか。もしかすると、だれもが自分の存在感の危うさを感じながら生活しているのかもしれません。適当にごまかしながら生きてはいても、その虚しさ自体は皆が心のどこかに持っているようにも思えるのです。あなたはいかがでしょうか。私達はどうしたらこの存在感(生きているという実感)を持つことができるのでしょうか。

ふつう私達は、自分が何かを成し遂げることによって存在感を持つことが出来ると考えます。しかし、私達の人生は必ずしもいつもうまくいくわけではありませんから、自分の存在感がそのようなものに左右されるとしたら、順調な時は良いとしても、物事がうまくいかなくなるとすぐに、「私って何だろう」と存在感を失ってしまうことにもなるのです。そうではなくてどんな状況の中でも「自分は自分」と自分らしく生きることが出来るなら、それが人生の本当の力となっていくのではないでしょうか? そのような“揺るがない存在感”を持つにはどうしたらよいのか、今日はその秘訣を聖書から学んでいきたいと思います。




神に愛されている存在



「あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「・・・わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。・・・」(エレミヤ31:3)

聖書が何よりも大切なこととして語っているのは、「この天地を創られた神様があなたを愛している」ということです。しかも、神様の愛は『永遠の愛』・・・私達がどんなに力がなくても、弱って何も出来なくなっても、神様のあなたへの愛は決して変わることがないのです。残念ながら、人の世界の愛は移ろいやすく、相手次第で愛せなくなってしまいやすいものです。

しかし、あなたがどういう状態であろうと、また、誰があなたなんかいらないと言おうと、神様はあなたをかけがえのない存在として愛し必要として下さるのです。ただし、愛は受け取らなければ何の力にもなりません。あなたがこの愛を受け取る時に、それがあなたの喜びとなり、生きる力となるのです。やがて、以前なら「自分なんかいなくてもいいんだ」と存在感がメチャクチャになってしまうはずの時でさえ、そこまで落ち込まないで支えられている自分がいることに気づかれることでしょう。




ユニークに造られた存在



また、私達は一人一人が皆違うということを認識する事も大切です。日本には「出る杭は打たれる」という言葉に表されるように皆と同じでないとまずいという土壌があるために、なかなか個性的になれません。しかし、周りにあわせようと自分を押さえ込んでいると、やがてどれが本当の自分かわからなくなり、その結果自分の存在感がなくなっていくのです。しかし、私達はそれぞれが世界にただ1人しかいないユニークな、またかけがえのない存在として神様に造られたのです。だからこそ、それぞれが自分らしく生きること、自分は自分でよいのだと知ることが大切なのです。

しかし、私達はしばしばこんな自分ではダメだと、自分を否定し、その部分を矯正しようします。例えば、「自分は口やかましくて、ダメだ」と思っているとします。でも、本当にそうでしょうか。確かに表に出てきた姿はうっとうしいかもしれませんが、元々は“よく気が付く”ということ・・その個性は大切にすべきなのです。良く気が付く人がいて、気が付かない人がいて、両方合わさってちょうど良いのです。ただ、その自分の個性が良い形で表れるようにだけ注意すればよいのです。どうすればよいのでしょうか。その秘訣は『愛』だ、と聖書は語っています。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物を全部貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Iコリント13:1〜3)

どんなに素晴らしい知識があっても、またどんな犠牲を払ったとしても、もしそれが愛によるのでなければ何の値うちもない、本当の役には立たないというのです。だからこそ、私達は自分の持っているものを愛によって用い、生かしていくことが大切なのです。

しかし問題なのは、その『愛』が自分にあるかということです。よくよく私達の心を見ていくと、愛だと思っていることも、本当は自分が困るから、自分の身や立場を守るためにやっていることが結構多いのではないでしょうか。『愛によって』何かをするというのは、本当にやってみようとすると難しいものです。もし皆さんが「自分には愛がある」と思っておられるとしたら、少し厳しい言い方ですが、もしかすると本当には愛そうとしていない・・・結局は自分が可愛いだけでしかないことにまだ気付いていないからかもしれません。では、本当の愛はどこにあるのでしょうか。

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子(イエス・キリスト)を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Iヨハネ4:7〜10)

神様はバチを当てる方ではない、神は『愛』だと聖書は語っています。私たちを本当に生かすことの出来る愛は神様からくる愛であり、私たちが本当に人を愛そうとするなら、神様からその愛を受けなければならないのです。ところが、神様の愛が私達に届かない理由があります。それは私達の『罪』です。しかし、その罪を解決するために、神のひとり子キリストが私達の身代わりとなって罰を受け、罪の処理をして下さった・・それが十字架です。それによって、神の愛が私達に届くようにしてくださったのです。

私達が「私にも愛を下さい」「この私をも愛して下さったことを感謝します」と、この神様の愛を信じ受け取る時に、周りの人にまで注がれていく愛が私達のうちにも湧きだしてきます。その愛によってこそ1人1人の個性が生かされ、自分らしく生きる喜びと力を味わう・・・自分の存在感が確かなものとなっていくのです。




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