心の傷
「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(詩篇32:1〜2)
人は、自分のことは自分が一番よくわかっていると言います。しかし、時として、どうして自分がこのようなささいなことですぐにカーッとなるのだろうと、自分で自分がわからないと思えることはないでしょうか。実は、私達の奥深くにある「心の傷」がその原因となっていることが多いのです。普段はそれに気付かないでいるとしても、何か事あることに、それが自分でも恩いがけない鋭い言葉となって口から出、私達の人間関係をこわしてしまうのです。
罪責感
「心の傷」は人から受けるものばかりではありません。自分で自分のしたこと(罪)を責め続ける事(罪責感)によって、自分を傷つけていることもあるのです。この罪責感が正しく解決できないでいる時、他の人が同じ事をするのを見ると我慢ができず、つい厳しく責めたりしてしまいます。あるいは逆に、人から言われた何気ない一言が、まるで自分を責めているように感じられ、思わず弁解してしまうという経験はないでしょうか。これは、無意識のうちに、自分で自分をダメだと責めている結果なのです。
ゆるし
私達の心の傷がいやされるために必要なのは、自分が「ゆるされる」ことであり、また同時に、自分を「ゆるす」ことなのです。人はゆるされてこそ初めて、正しい歩み(生き方)ができるのです。けれども、人間にとってゆるすということほど難しいことはありません。いったい誰が私を、私のすでに犯してしまった過ちを赦してくれるのでしょうか。
「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに・・・私たちの神に帰れ、豊かに赦してて下さるから。」(イザヤ55:6〜7)
聖書の神は、豊かに赦して下さる神です。弱さをもったまま、がんばれないまま、罪をもったまま、神の前に「こんな私を赦して下さい」と祈る時、神はありのままの私たちを受入れ、そのすべての罪を赦して下さるのです。
それは、イエス・キリストが私たちの身代わりとなって、本来私たちが受けるべき刑罰を十字架上で受けて下さったからなのです。「神があなたを赦す道を備えられたのだから、あなたはただそれを受け取ればよいのです。もう自分を責めてはいけません」と語りかけておられるのです。
いやし
「平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」(イザヤ57:19)
聖書の神はまた、癒して下さる神でもあります。たとえ他の人には決して見せたくないとしても、病気を治して下さるお医者様の前では、私たちは悪いところを隠さずに見せることができます。それと同じように、私たちの「心の傷」をいやして下さる神様の前では、私たちはありのままの姿で出ることができるのです。逃げたり隠れたりする必要はないのです。神こそが“心の傷”を癒すことのできる方なのです。
新しい人生 〜自分らしく生きる〜
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(IIコリント5:17)
神様の備えられた「ゆるし」と「いやし」を受取り、自分で自分を責める罪責感から解散されて下さい。これは神様からあなたへのプレゼントです。あなたが「ありがとうこざいます」といって受け取れば、それがあなたのものとなるのです。その時、あなたの人生は神様が最初に計画されていた通りの、個性的でのびのびとした豊かなものへと変えられてゆくのです。あなたの本当の素晴らしさが現される人生となってゆくのです。