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思い煩い

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思いわずらい

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:4〜7)

私達は、日々ああでもない、こうでもないと思い煩い、それが私達の人生を傷つけていることに気付いていません。どんな小さな事でも思い煩いの原因となりうるのです。出口のない暗闇を堂々巡りして、いつしか絶望・死へとさえも考えが進むのです。

どうして思い煩うのか?

1.誰からもよく思われたい(八方美人でいたい)ため聖書の「思い煩い」という言葉には、「心を分ける」という意味があります。あの人にも、この人にも良く思われたい。だれからも批判されたくないという気持ちがあると、あちこちに気を使い、思い煩うことになるのです。

2.自分の力の限界、弱さを認めない(背伸びしている)ためあるべき姿と、現実の自分との間で無理をしていると、やがて破綻が来、それをいかにごまかそうかと思い煩うことになるのです。正直に自分の限界を認め、ありのままの目分を出すことにより、思い煩いから解放され始めます。

3.今まで自分が守られ、支えられて来たことを忘れているため私達は、自分の力で生きてきたと思いがちです。このため、これからも自分の力で何とかしなければと思い煩うのです。しかし、実は私達が生きていく上で必要なもののほとんどが(例えば水も空気も)与えられている・・・すなわち、私達は生きているのではなく、生かされているのです。何が起きても不思蟻ではないこの世の中で私が今ここにあるのは、守られ生かされてきた故と感謝するとき、これからもどんな試練も乗り越えられると希望が見えて来るのです。

4.自分の力しか頼れないため(自分以上の存在を認められないため)自分の力しか頼れないとお金がなくなれば絶望し、人間関係が切れれば絶望して思い煩います。しかし、たとえ四面楚歌になったとしても、いつも上だけはあいています。・・・すなわち、この天地を創り、私を創られた神様がおられるのです。この方が助けて下さることを知れば、希望がわいて来るのです。

思い煩いから解放されるために

「いつも主にあって喜びなさい。」(ピリピ4:4)

どんな苦しみの中にあっても、悪いことではなく、何か「良かった」と思えることを見つけだして下さい。「今日も食べ物があった〕「手が動く」「自が見える」・・・そして感謝するのです。この「良かった探し」を毎日10個以上続けていくとき、心が明るくなっていくのです。

「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。」(ピリピ4:5)

寛容とは、人を許す心です。たとえ相手に75%の非があったとしても「あの人も大変なんだなあ」と許し、残りの25%は自分の問題(責任)として認め、受け取っていくのです。その部分を相手に素直にあやまる時、思いがけず心が通じ合い、その人との問題をめぐる思い煩いも消えて行くのです。

「あらゆるばあいに、・・・神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6)

たとえ人には話せないことであっても、神様には何でも話してよいのです。きれいごとの祈りではなく、自分の心を偽らず、本音で祈るのです。相手の悪いところですら洗いざらい祈ってしまうと、不思議なことに、良いところも気付くようになります。さらに、自分にも変わるべきところがあると思えるようになるのです。そうしたら「私を変えて下さい」と祈って下さい。この祈りは特に良く聞かれるのです。そのうちに、自分ではなく当の相手が変わってきたことに気付くかもしれません。しかし、実はそれは、自分が変えられたことの結果なのです。そして、それが、自分の心の平安へもつながって行くのです。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです。」(エペソ5:7)

私達は、自分の問題を本当に信頼できる人(その道のエキスパート)におまかせする時、それだけで心が平安になるものです。最高のエキスパートとは、すなわち天地を創り私達を造られた神様ではないでしょうか。聖書は、その神様があなたのことを心配して下さると語っています。私連の問題を、この神様に心からゆだね、おまかせする時、私達の思い煩いは消えてゆき、ゆったりとした自由、解放された積極的な生き方へとかえられていくのです。

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