なぜ孤独を感じるのか?
私達の心の深い部分に影のようにひそみ、私達の人生をそこなっているのが‘孤独’です。一人でいる時に感じる孤独もありますが、それにも増して、大勢の中にいる時に感じる孤独ほど深いものはありません。そのために、多くの人が、酒で、遊びで、テレビで、山歩きでと様々なことでその淋しさをまぎらそうとしています。しかし、一時は忘れられても、後でかえってより深い淋しさが増し加わっていくのを体験するのです。私達は、この孤独感を解決しえないが故に、本当の人間関係をもてないでいることが多いのです。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」(イザヤ53:6)
羊は非常に弱い動物です。逃げるにも足が弱く、また近眼ですぐ前しか見えないため、群れになって前の羊についていくのが精一杯です。自分では水も草もさがすことができず、羊飼いがいなければ生きていくことができません。聖書はしばしば、人間をこの羊にたとえています。私達人間は「さまよえる羊」であり、どうしてよいがわからない状況のなかで、何とかして自分の力で歩んでいかなければと、一人ぼっちでさまよっているのです。私達がなぜ孤独になるのか、その根本の原因は、私達が羊飼いである神から離れた結果なのだと、聖書は語っています。
心の奥の孤独
人が孤独を感じるのは、心を通わす友がいないからです。では、なぜそのような友ができないのでしょうか。それは、もしも自分が本当の姿を出すなら、人から嫌われるのではないかと恐れて、心を開くことができないためです。荒野をさまよう羊のように、危険やワナがいっぱいのこの世の中で、自分を守りつづけるために、心を開けないでいるのです。人の心には表と裏があるといわれます。私達はふだん表の部分で人とつき合っていますが、時には、この人ならと思える人に自分の裏を見せることもあります。しかし、人の心には、さらに深い奥があるのです。それは、決してだれをも入れることのできない所、そして私達が本当に孤独を感じるのは、この心の奥の部分なのです。ここを埋めることができるのは神様だけです。私達がこの神を認め、神に立ち返る時、この心の奥の孤独がいやされるのです。
孤独からの解放
「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。」(イザヤ55:7)
心の奥の孤独が神様によっていやされる時、私達の内に生きる力がわき出してきます。人間はすばらしいと聖書は語っています。しかし、現実の私達は、ガソリンのきれた自動車のようなものではないでしょうか。どんなにすばらしく造られていても、それを動かす力(ガソリン)がなければ、自動車は無用のものとなり、その造られた目的をはたせません。私達にとってガソリンのようになってくださる方が神様です。私達が神のもとにたち返る時、その神の力を私たちの内に味わい始めるのです。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしばあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)
聖書の神は、このように語って下さいます。この神のもとに来る時、私達の心を真に満足させる神との交わりが与えられ、さらに孤独にさいなまれるのではなく、人と正しい関係をもつための心の余裕が、私達の内に与えられるのです。「本当にそのような神がおられるなら、私のところに来て下さい。私の心を満たして下さい。」と祈ってみて下さい。 たとえその時は半信半疑の祈りであったとしても、現実に変えられていくのを体験する時、だんだんと確かに神がおられると信じられるようになるのです。神様はあなたを見ておられ、心配しておられます。あなたを助けようとしておられるのです。この方が共にいて下さることを知る時、私達の内にある孤独が消えてゆくのです。