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クリスマスの意味

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心の中の暗やみ

「この方(イエス・キリスト)にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。−すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネ1:3〜9)

人の心には、何かに頼りたい、安心できるもの(人やお金など)が欲しい、という思いがあります。しかし、多くの場合、私達は失望、落胆して、結局自分しか頼るものがないと結論を下すことが多いのではないでしょうか。家族や友人がいたとしても、どこか満たされない孤独感−ちょうど「荒野に取り残された羊」のように、だれも自分を守ってくれないという不安と恐れに取り囲まれでいるのです。にもかかわらず、人には自分の本当の姿は決して見せず、自分には何の問題もありませんというようにみせかけ、ごまかして一生を終わるのです。しかし、この人生の暗闇に光をもたらすためにキリストが来られました。この方を迎える時、どんな人も、心の中に光をもつことができるのです。

神に生かされる人生

レーナ・マリアさんという方ののコンサートがありました。生まれながらに両手と片足がないというハンディをもったレーナさんは、しかし、それを自分にとって障害だと思ったことはない、神様が私をこのようにつくって下さり、私でなければできない使命と喜びを与えて下さるので喜んで生きていくことができるのです、と力強く語っておられました。

もしレーナさんが神様を知らなかったらこのように生きていられるでしょうか。たとえ訓練によってハンディを克服し、何かできるようになったとしても、それでも「どうして?」と心がおしつぶされるようなことがなかったでしょうか。神様に愛されているという喜びが、し一ナさんをこのように生かしているのです。キリストは、私たちもまたそのように生きるために、この世に来て下さったのです。

ずれた人生

すべての人は罪人だと聖書は語っています。どんなにすばらしく見える人も、その心の内側、動機までもさぐられるとしたら、決して良い心だけではないことを本人は知っているのです。聖書でいう「罪」には「ずれている」という意味があります。本来あるべき姿からずれているのです。親として、妻として、人間として、こうすべきだとわかっていても、それができない−私達は不十分な自分を見るのです。これは、人がずれてしまった結果、すなわち、もともと神と共に生きるようにつくられていた私たちが、神がらずれてしまった結果として、様々な問題がおこってきたのだと聖書は語ります。しかし、キリストは、この「ずれ」を調整するためにこられたのです。この方によって、人はつくり変えられるのです。

神様からのプレゼント

私達は、クリスマスにプレゼントを交換します。しかし、私たちへの最大のプレゼントは、イエス・キリストが全世界の救い主としてこの世に来て下さったことなのです。今まであなたはひとりで頑張ってここまで来ました。でももうあなたは疲れていませんか。弱っていませんか。そのすべての問題を私がかわってあげます。私があなたの救い主になることができるのです。この私を受け取って下さい、とキリストは語っておられるのです。

プレゼントとは、受け取らなければ自分のものになりません。しかし、「ありがとうございます」と言って受けるなら、それがあなたのものとなるのです。神様はあなたの人生に、あなたの悲しみ、苦しみにかかわりを持って、本当の解決を与えたいと思っておられるのです。「もし、そんな神様がおられるなら、私も救って下さい」とあなたが心を開いて祈るなら、神様はあなたの救い主となって羊さり、今まで知らなかった解決「光」を与えて下さるのです。

「やみは光に打ち勝たなかった」とあるように、あなたの問題がどんなに大きな暗やみであっても大丈夫です。自分が頑張って変わるのではなく、あるいは何かの修行や行いによって変わるのでもなく、ただキリストのもとに来る時、神によって変えられ生かされる人生となるのです。新しいことを始めるには勇気がいります。しかし、私たちが有意義な人生を歩みたいと思うなら、正しいと思うことをするのに一歩踏み出すことが必要です。人がどうこうではなく、ただ神様の前に祈って下さい。その祈りに神は応えて下さるのです。このクリスマスが皆さんにとって、神と共に歩む本当のクリスマスとなりますように。

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