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どうにもならない人生

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ariesa66 / Pixabay

思い通りにならない人生

私達の人生には、自分ではどうにもならないことがあります。私たちは、案外自分の人生は何でも自分でやっていけると思っているのですが、しかし、よくよく考えてみれば、実は自分の力ではどうすることもできないことばかりではないでしょうが。例えば、ご主人のこと、子供のこと−自分の思い通りにはなりません。たとえ自分の子供であったとしても、別の人格なのです。そればかりでなく、自分自身のことさえも、いくら色々と考えてみても、中々そのようにはいきません。自分ではどうしようもないと思えることにぶつかった時、あなたならどうするでしょうか。

ベテスダの池

「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、へブル語でベタスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、38年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた,「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」(ヨハネ5:2〜9)

このベテスダの池には間欠泉があったらしく、水が動いた時最初に入った者はどんな病気でも癒されるというい言い伝えがあったのです。もしあなたがこの男だったとしたら、どうでしょうか。自分は何のために生きているのか、なぜ生まれてきたのかという思いの中で、それでも、もしかしたら病気が直るかもしれないという淡い期待を抱いて、わらをもつかむ思いでここに来ていたのではないでしょうか。イエスはそのことをよくご存じの上でなお、敢えて彼に「よくなりたいか。」と問われたのです。何と場違いに思える問いかけではありませんか。けれども、実はこの言葉の中にまさしく私達自身へ向けられた問いかけがあるのです。

よくなりたいか

人は、不幸ばかりが続くと、いつの間にか悪いことが起こるのが当然と考えるようになりがちです。そして、ちょっと良いことがあると、次に必ず悪いことが起こるに違いないと考えてしまうのです。人生には悪いことが起こるものとあきらめ切ってしまい、やがて不幸から抜け出そうとする気持ちさえ出てこなくなるのです。なぜなら、最悪のことを考えていれば、どんなことがおきても失望することがないからです。そのような生き方をしている人は案外多いのです。私たちは不幸にさえも慣れることがあるのです。しかし、それは何と希望のない人生ではないでしょうか。だからこそイエスの「よくなりたいか。」という問いかけが大切なのですまず第一にイエスが私たちにしようとしておられるのは、心を癒すことです。

私たちは、生きることに対して、色々な疑問、悩み、悲しみを持っています。生きる力がない−ある意味で病気なのです。また、自分の生きるべき道が見えない−何のために生きるのか、これからどこへ行くのがわがらない(死への備えができていない)−心の盲人です。あるいは、正しい道がこれだと言われても、まっすぐに歩くことができない−あっちへよろけ、まるで酔っぱらいの千鳥足のような人生の歩み・・これでは「心の足なえ」です。心はやせ衰え、生きてはいても、本当に生きているという実感がない−このベデスダの池に集まっている人と同じ様な心の状態ではないでしょうか。そんな私達に、イエスは「よくなりたいか。」と問いかけておられるのです。

起きて、床を取り上げて歩きなさい

「できるものなら直りたいけど、私なんかダメだ」と心のどこかで思ってしまうことがないでしょうか。人が上に向かって行くのは中々難しいのです。でもそれは本当にできないのではなく、「できるんだ」という考えに立てないからなのです。私達に必要なのは、このイエスの言葉に真剣に耳を傾け、賭けてみることです。

38年間病気だったこの男も、イエスの間いかけに対して素直に「はい、直りたいんです」とは答えられないような心の状態になっていました。それでも、「起きて床を取り上げて歩きなさい」とのイエスの言葉を聞いてそれに賭けた時、立っている自分を発見し、床を取り上げて歩いている自分に気付いたのです。

電気が私達の家まで来ていたとしても、コンセントにコードをつなぐまでは、私達に何の力も及ぼさないように、私達も、神様の本当の力を体験するためには、イエスにつながる必要があるのです。イエスにつながるとは、頼ること、自分をまかせてみることです。聖書の言葉を自分に言われていることとして受け取って、本気で頼って見る時、不思議に心が変わり始めるのです。悩みがあっても、それを越えた平安が心にあることを体験するのです。聖書の言葉はすべての人に差し出されています。問題は、私たちがそれを受け取って、任せてみようと決断するかどうかです。ぜひ、このイエスさまにお任せしてみて下さい。きっと神様はみなさんの人生に新しい歩みを始めて下さるでしょう。

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