思いわずらい
心配症の人は、朝傘を持っていくかどうかという些細なことでさえ、あれこれと思いわずらいます。ある人が、「私は憂鬱症の犠牲者だ」という遺書を残して自殺しました。憂鬱症の故に次第に仕事も手につかなくなり、何かに熱中することで解決しようと、何度も奥さんをかえ、住む家や国も変えましたが、結局行き着いたのは、どこにも救いがないということでした。そして、かえって彼にかかわった多くの人を傷つける結果となったことで、さらに思い悩むことになったのです。
思い煩いを小さく見てはいけません。その人の持っている能力が発揮できなくなるばかりか、思いわずらいがこうじると自律神経に失調をきたし、高血圧・胃潰瘍をはじめ、ありとあらゆる症状となって体に現れてきます。しかし、悲しいことに多くの人々は間違った方法で思い煩いを解決しようとしているのです。ある人はギャンブルやアルコールで一時的に忘れようとし、ある人はいつも自分を言いわけし弁解することで処理しようとします。また、ある人は人を批判することで処理しようとします。すなわち、思い煩いに落ちいると、他の人が皆自分のようになればよいのにと思い、幸せそうな人をみると憎らしくなって引き下ろしたくなり、それで自分の心を安定させようとするのです。しかし、その結果、自分がいよいよ苦しいところに落ち込んでしまうのです。では、どうしたら思い煩いから解放されることができるのでしょうか。
心を定める
聖書の“思い煩い”という言葉には、“心を分ける”という意味があります。私たちは失敗を恐れてどちらかに決められないために思いわずらうのです。しかし人生に失敗はつきもの、矢敗したらその結果の責任をとろうと覚悟すれば思い煩う必要もありません。もう一度やり直す労を惜しみ、また、だれからもよく思われたいと願う故に思い煩うことになるのです。
良いことに心を向ける
「いつも主にあって喜びなさい。・・(中略)・・何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:4〜6)
どんな時にも喜びなさい、と聖書は語っています。楽しいことを考えている時は、体もリラックスして心も穏やかに明るくなっていき、逆にいやなことを考えたり、心に憎しみや怒りをもっていると心しは暗く体も緊張していくことに気づかれるでしょうか。
心と体はつながっているのです。何か苦しいことがあったとしても、「どうしよう」と思い煩うかわりに、「何とかなる」と思いをかえて、リラックスする練習をしていくことがまず必要です。次に自分の気持ちを何でも話せるということがとても大切です。自分が本当に悩み苦しんでいる時、それを誰かに洗いざらい話したら、とても気持ちが楽になったという経験はないでしょうか。
聖書は、神様は私たちの思い煩いを聞いて下さる方であり、さらに『そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:7)』と語っています。人に何でも話すとまずい場合があります。けれども神様に向かってなら、心の思いを何でも話して良いのです。
愚痴を言うなら、同じところをぐるぐる回るだけです。しかしそれを祈りにする時、問題の中に方向性が見えて来、前進することができるのです。さらに聖書は、『すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、そのほか徳といわれていること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(ピりピ4:8)』とも語っています。
思い煩うとは、悪いことに一生懸命心を向けている状態です。しかし良いことに心を向けるなら、思い煩いから解放されていくのです。ある所に大洪水がおきて、何もかも流されてしまいました。―体ここに何の良いことがあるでしょうか。しかし、そんな中である人が「神様、いつもこうではないことを感謝します。」と祈ったというのです。いつもそんな状態だったら大変です。でもそれは今だけ…どんな中でも良いことに目を留めようと思えば見つけることができ、そこから希望が見えてきます。同じものを見て、思い煩うこともできれば、感謝して前向きに生きることもできるのです。
いつも主(神様)にあって喜びなさい
「主にあって喜ぶ」とはどういうことでしょうか。聖書はこう語っています。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)
これは、イエス・キリストが十字架にかかり、私たちの受けるべき裁きとのろいのすべてを代わりに受けて下さったことを指しています。生まれてから一度も罪を犯したことがない人はありません。たとえ実際に人を殺したことがないとしても、心の中であんな人死んじゃえばいいと思ったことがあるかもしれません。神様が全てをご存じであるとすれば、だれも神の前に「私には罪がない」と言い切れる人はいないのです。かえって、あんなことしなければよかったと、悔いることの方がが多いのではないでしょうか。しかし、キリストはすべての罪・汚れのために、私たちの身代わりとなって十字架にかかり死んでくださった―それも無代価で、私たちが頼む前に自らすすんで、あなたのために死んで下さったのです。それほどまでに愛して下さる神が、すべてのものを恵んで下さらないことがあるでしょうか。
神はそのようにあなたを愛しておられる、それが聖書の語るメッセージです。その愛を受け取った者は、それを喜び、どんな不安と恐れの中でも力強い歩みをしていくことができるように変えられていくのです。そのような神様が私と共にいて下さり、いつも守っていて下さると知れば、どうして恐れ、思い煩う必要があるでしょうか。思い煩いは、思いがけないほどに私たちの人生をそこなっています。けれども、そこから解放されて力強く生きる道を、神様は用意して下さっているのです。
「私は、・・あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:12〜13)