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憎しみ

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Wokandapix / Pixabay

憎しみ

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。」(ヤコブ3:14〜16)

自分にひどいことをした人を憎んだり、恨んだりする(=敵対心)…時には「あんな人は憎まれて当然,許すべきではない。」と思うことさえあります。それは大したことではないと思いがちですが、実は私たちの人生を根底からゆるがす危険なことなのです。人を憎んでいると、相手以上に自分を苦しめる結果となります。しかも、やがて憎む相手が1人ではすまなくなります。同じタイプの人を見ると、ことごとく憎むようになるからです。そして、人が自分を傷つけるのではないかと、だんだん人と会うのがいやになり、さらに進んでいくと死にたくなるのです。心に憎しみがあると自殺願望が出てきます。生きる力がなくなるからです。憎しみは小さい問題ではありません。人生の歯車をゆがめ、家庭全体までこわしてしまいます。では、なぜそんなことになるのでしょうか。

憎しみの力

聖書は、憎しみ(敵対心)は上(愛なる神)から来るものではなく、悪霊に属するものだと語っています。私たちの心をよく考えてみて下さい。憎しみがある時、怨念のような、呪ってやるという心が確かに芽生えていると思わないでしょうか。平静な時には思いもよらないようなことを考えたりしてしまう、人殺しにまでも至ることさえあります。そこまでいかないとしても、これを言ってはいけない、これを言ったら終わりだとわかっていながら、押さえられない自分がある・もはや自分自身でないものに支配されているということに気づかれないでしょうか。知らず知らずのうちに、そんな影響を受けているのです。

憎しみの主な原因には、愛(期待)が裏切られたり、不当に虐待(いじめ)を受けたりすることがあります。憎しみにまで至る背景には、多くの場合憎んで当然・誰だってそうしただろうと思えるような状況があることが多いのです。だからこそ、私たちは憎しみに対して解決の道を持たなくてはならないのです。そうでないと、人をおとしめるための知恵(悪知恵)が発達し、それを用いると私たちはいよいよ暗くなり、自分がやったことを悔やむことになるのです。

「しかし、上(神)からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3:17)

神の言葉に従う時、上(神)からの知恵が与えられ、そこから立ち上がって行くことができます。自分の思いに従って歩むなら、そこには『秩序の乱れやあらゆる邪悪な行いがある』・私たちは何としても、そこから解放されていかなければなりません。ではどうしたらそうできるでしょうか。

罪を認める

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第Iヨハネ1:8〜9)

『罪を言い表すなら』とは、罪を認める(その通りですと言う)なら、ということです。しかし、ここで私たちは“その通りです”とは言いたくないのです。自分が憎んでいるのはあの人のせいだと言って、自分の罪を認めたくないのです。ここが問題なのです。その場合、まず自分が罪を認めたくない者だということを認めるところから始め、「認められるようにして下さい。」「もし神様がいるなら、わかるようにして下さい。」と祈ってみて下さい。神様の前には自分の正直な姿を出してよいのです。「私は自分の罪を認められません。あの人がこうしたのです。」と祈ってよいのです。そうする時に、次第に,自分の本当の姿をそのままに受け止められるようになります。それができた時初めて、私たちはそこから解放され始めるのです。

憎しみからの解放

私たちがするのは、罪を言い表すことだけです。直そうとしなくてよい、憎しみを自分で取り去ろうとしなくてよい −いや、しようとしてもできないのです。しかし、ただ罪を認めるだけで終わるなら、そんな自分がいやになり落ち込んでしまいます。罪を告白すると同時に、それが全部許されていることも受け取って頂きたいのです。キリストが十字架にかけられたのは、私たちの罪を赦すため、身代わりに罰を受け、私たちが新しい人生に歩めるようになるためだと聖書は語っています。『神は真実で正しい方ですから』とは、『イエス・キリストの十字架を忘れないから』という意味です。

私たちが罪を告白するならば、神様はそれを赦して下さるだけでなく、私達をきよめて下さり、造りかえて下さるのです。これは神様からのプレゼント・私達が罪に打ち勝つための愛のプレゼントです。プレゼントは受け取らなければ自分のものとなりません。しかし、「ありがとうございます。」と受け取るならぱ、それがあなたのものとなるのです。

憎しみは小さな問題ではありません。憎しみは私達の性格までも変え、人生を根底からゆるがす力を持っています。お一人お一人が、自分の本当の思いを正直に神様に告白し、憎しみという敵から一歩ずつ解放されていく人生を味わうことができますように。

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