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平安

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豊かさの中で

「わたし(キリスト)は、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

日本は今や経済的に豊かになり、欲しいと思えばたいていのものは手に人る時代になってきました。しかし、そこで気付いたことは、そのような豊かさの中には、本当の平安や心を満たすものがないということでした。私たちはお金や地位など多くのものを求めます。しかし、生きていく上で本当になくてならないもの、―言い換えれば、これがあればやっていける、というものは何でしょうか。

平安を求めて

私たちが心の底で本当に求めているのは、“平安”―どんなに世の中が変わり、状況が変わっても、変わることのない平安ではないでしょうか。私たちはそのために色々なことをやってみます。子供に勉強しなさいとうるさく言うのも、将来子供に安定した平穏な生活(=平安な日々)を過ごして欲しいからです。しかし、何もかも順調に進むようにと計算し、その通りにやってきたはずなのに、思うようにならない。子育ての本を色々読んでもう万全と思いやってきたのに、全く裏切られてしまったということもよく経験するのです。

人生は計算通りにはいきません。だから、ある時は平安が与えられているように見えても、何か問題がでてくれば、真っ逆さまに落ち込んでしまう―私たちが平安を得られると思って追い求めてきたのは、そのようなものにすぎなかったのではないでしょうか。ある人々は修行することによって、又妨げになる物を一切すてることによって、平安を得ようとしています。(今日本中の話題になっているオウム教団に入った若者たちも、それを求めていったのではないでしょうか。)それらは皆、人間が考えて、こうやったらできるのではないかと求めていった平安の道です。しかし、聖書は、それとは全く別のかたちの平安が備えられているのだ、と語っています。

ゆるぎない平安

どんなことがあってもゆらぐことのない平安は、どのようにしたら手に入れることができるのでしょうか。例えば、あなたとある人との間の問題がこじれてしまい、どうにも解決できない状態になったとします。どこにいても、その人が入ってくるなら、その瞬間に平安がなくなります。他のことがどんなに整っていても、楽しめません。

しかし、もしそこに皆から尊敬されている素晴らしい人が来て、あなたのそばに座り、「会えてとてもうれしい」といってくれたら、どうでしょうか。自分がその人に愛されていると思うとうれしくなって、いやな人がそこにいたとしても忘れることができるでしょう。そのように私たちは誰かに本当に許され受け入れられているという感覚を持つことによって、ゆるぎない平安を与えられるのです。まさに、聖書の神は、あなたをそのように愛し受け入れて下さる方なのです。

神との平和

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ4:25〜5:1)

教会には十字架があります、イエス・キリストは、今から約2千年前、旧約聖書で予言されていた通りに生まれ、友なき人の友となって生涯を歩まれたあと、ご自身には何の罪もなかったにもかかわらず十字架につけられて殺されました。それは、すべての人類の罪のみがわりとなって罰を受けられたためだ、と聖書は語っています。

本来なら、私たち自身が、自分の罪、弱さ、愚かさの罰を受けなければならなかったにもかかわらず、このキリストを信じることによって、罪の赦しを受けることができ、神の前に義(正しい者)と認められる―その結果神との平和を持つようになる、というのです。これこそが、どんな状況の中にあっても、決してかわることのない平安を私たちにもたらすものなのです。

神の平安

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6〜7)

あなたの願い事、悩み、苦しみ、どんなことでも神様に祈ってみて下さい。あなたがキリストによって祈るなら、キリストの十字架の故に、その祈りが受け入れられ、あなたに神の平安が宿る、と聖書は語っています。私たちの日常生活はイライラすることばかりではないでしょうか。あなたはまだ神様のことがよくわからないかもしれません。けれども、人はだれでも苦しい時に祈る心があるのです。「もし、それがキリストの神ならば、私の祈りを聞いて下さい。私の心を平安にして下さい。」と祈って、自分の心の中の恐れ、不安を正直に洗いざらい神様に話してみて下さい。その時、不思議に心が平安にかわっていくことでしょう。

聖書は、ここに平安がある。あなたが平安を持つのを妨げるものはすべてキリストの十字架によって取り除かれた、と語っています。もしあなたが心を開いて求めるならば、それが与えられるのです。

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