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見えますか、子供の心

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子供の心

大人は子供の心についてかなり誤解しています。第1の誤解は、子供がおこす様々な心の問題は、その子自身の問題だというものです。問題をおこした子供には、その子なりの言い分が必ずあるものです。それが心の中で屈折を重ねていって最終的に出てきたときに、登校拒否、暴力、万引き、過食、拒食等、様々な問題となるのです。子供を連れてきて言い聞かせたり話を聞いただけでは、決して良くなりません。その背景にあるもの(家庭・社会などの問題)に手が届かない限り、子供たちの行動は変わらないのです。

第2の誤解は、子供は人格的に未熟で感情のままに行動する、と考えることです。3才位まではそうかもしれませんが、それから先は、子供は子供なりに子供社会を知っていき、同時に大人とも付き合わなければなりません。そこで子供たちは繊細で微妙な心の動かし方をするのです。確かに子供は大人がして欲しくないことをよくします。しかし、それは子供の生活そのものを生きているのであって、感情にまかせてするというのとは違います。子供が自分を表現しながら生きているということなのです。

問題は、それを受け取る大人の対応にあります。子供のもっている行動パターンやぺ一スを大人のものに合わせていく―それが大人になっていくということですが、それには時間がかかり、始めはギャップが生じます。その時まず最初に、「どうしてわからないの」と感情的になるのは大人の側です。大人がその状況に我漫できなくなるのです。大人は周囲の目も気になるので、さすがにじかに子供に感情的な言葉をぶつけることはしないとしても、心の中では腹立たしく思っています。その時、大人は知らず知らずの内に自分の感情を押し殺して話しているのです。

なぜなら、そこには第3の誤解―子供には大人の感情を読む力がない、と思う―があるからです。子供にとって一番大事なのは、何を言われたかではなく、お母さんがどういう気持ちでそれを言ったかなのです。例えば、子供にとって自分がなぜじっとしていなければならないのかは理解できないことの方が多いのです。しかしお母さんが本当に困っていて、こうしてちょうだいとお願いしたことは、子供は守ってくれる。つまり、子供はその場面の大人の心のあり方が読めているのです。考えてみればそれは当然です。子供は難しい言葉の意味がわからない分、表情や言葉尻の小さなニュアンスにお母さんの機嫌を読み取ります。大人は、自分は感情的にならないと思っていますが、子供は親の感情を敏感に察して、お母さんはもうボクのこといらないんだと思ってしまう。―そのあたりから大人と子供のスレ違いが始まるのです。

子供の言い分

親の言うことを聞かない子がいます。親の言うことにいちいち逆らい、親がムキになってやらせようとすればする程、子供も意地になっててこでもやらない。「このままだと将来大変だ」というお母さんの不安が強い時ほど、どうでもよいことまで無理にやらせようとする―すなわち子供をこちらの思い通りに動かそうとします。ところが、そのお母さんが「この子はわがままで」という時の“わがまま”とは、他の人(この場合は親)を自分の思い通りに動かそうとすることです。「お母さんがわがまま(相手を自分の思い通りに動かそうと)するんだから、僕もわがままするんだよ。」というのが、普段は埋もれていてだれも聞けない子供の言い分です。

しかし、子供は親の庇護の下にあって親に従属している親の付属品、未完成品だというイメージが大人の側にあるために、子供を一人の人格をもつ人間として、その心を聞こうとしません。子供は言葉で表せないので、「何かイヤだ」「へんだ」と思っていますが、最終的には親の方が強いので、子供は退きます。しかし、子供の中にはおさまらない何かが残り、それが積もっていった時に、親との間が決定的におかしくなるのです。(実は、そうなってしまった子供の言い分を聞き、言葉に翻訳して親に伝えるのが児童精神科医の仕事の第1歩なのです。)しかし、そうならないためには、子供の積もった言い分をどうやって聞くかということ―すなわち、問題は子供に表現力をつけるというよりは、どれだけ大人が子供の心を聞き取る力を増やしていくか、子供の心に届いて行くことができるか、ということになります。

又、何度叱られても懲りない子、何度も同じイタズラをして失敗する子がいます。それは、叱られたことをすぐ忘れてしまうというよりは、叱られていることの意味が分からないためなのです。むしろ同じことを3回以上叱っても子供がくり返すようなら、自分の使っている言葉のどこかに子供のわからない言葉があると思って、言い方を変えてみたほうがよいと言えます。親は常に子供の側からの言葉にならない言い分を考えてみる必要があるのです。

子育ての中で起こる問題の多くは、子供自身のというよりは、育てる親の気持ちの処理の問題の方がずっと大きいと言えます。子供のやることをじっくり待っていられるかどうか、子供が何度も同じ失敗をしたとしても、それも必要なことと思って見ているだけの余裕が親の側にどれだけあるかということです。今の時代は核家族化が進み、近所付き合いも減って、子育てを応援してくれる人が身近にいなくなりました。孤立したお母さん達が心の余裕をなくしてしまいやすい状況です。そのためにも、お母さん達が気軽に相談できる場が増えていくことが必要とされています。

聖書の子供観

今の時代は、自分の好きな時に子供をつくる、という考えが大きくなりました。つくったものは自分のもの、自分の思い通りになるもの、してよいものと思ってしまいがちです。しかし、聖書は、子供は神様から与えられたもの、更に言えば預けられているもの―決して親の所有物ではないと語っています。子供は色々な意味で、体も知的にも足りないことが多く、弱い存在です。しかし、この弱い者をどうとらえるのかが私たちに問われているのです。

「(イエスは)彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。・・・あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」(ルカ9章49節)

大人は知識を積み重ねれば神に至ると考えます。しかし人間をつくられた神様は人間の知恵の及ばない所におられます。一方子供は理屈を越えて神様をとらえることができます。その意味で、子供の存在は神様に近いということがいえます。それが児童精神科医という仕事を通して、私が自分の生き方を教えられる理由かもしれません。子供の心を見ようとすることは、子供という写し鏡を通して自分の心の有様を見ることです。自分の心のことがわからない限り、子供の心のこともわからないといえるのではないでしょうか。

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