条件つきの愛
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(第Iヨハネ4章10〜11節)
今まで人間関係について学ぶ中で教えられてきたことは、もし愛があるならば、難しい関係や困難な状況も変えられていくのだということでした。では、本当の愛とは何でしょうか。母の愛は無償の愛に一番近いといわれます。病気の子供を一生懸命看病するのは、別に恩返しを期待するからではなく、ただ良くなって欲しいという思いからです。ところが、もしその子が自分に反抗心を見せたりするなら、こんなにしてやったのにという恩着せがましい気持ちがでてきます。自分の思い通りになっているうちは可愛いけれど、自分の気に入らないことを始めるなら、その愛が冷えてくる−どこかに条件がついているのです。
しかし、聖書でいう愛は、それとは違います。無条件の愛です。でも私達には無条件の愛がわかりません。むしろ、年を重ね、人との中で色々な経験をつんでいくうちに、『タダより高いものはない』という確信の方が強まり、その結果、神様もそのような方だと思ってしまうのです。聖書は『愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。(第Iヨハネ4章8〜9節)』と語ります。私たちは条件つきでしか人を愛することができません。ですから、神様が無条件に愛して下さるといわれてもなかなか信じられず、神の愛を受け取ることができないのです。
さらに、自分が無条件の愛を受ける体験をしたことがなければ、人を条件無しに愛することもできません。たとえ親が子供を愛していると思い、子供に良かれと思って何かやってきたとしても、それが相手に愛だと通じないもの(条件つき)であるなら、子供の心はかえってすさんでしまいます。私たちが真に愛する者となるためには、まず本物の愛を私達が知ること、そして更に、それを自分のうちに受け取っていくことが必要なのです。その時、生き方、考え方が変わり始めます。人間関係の色々な分野にわたって、「これは愛だろうか?」と自分に問いかけながら考えたり行動できるようになります。その時、私達の言葉や行動は相手の心に通じるものとなるのです。
無条件の愛
私達がお願いしたからでもなく、立派だからでもなく、ただ神様が私達を愛された故に、私達に必要なことをしてあげたいと思われた―それが十字架だと聖書は語ります。すなわち、十字架を、私達を苦しめる3つの問題から救い出すための手段とされた、というのです。私達を苦しめる第1のものは“罪”です。もし私達の内側からねたみ、嫉妬、恨む心などが全くなくなったとすれば、それだけで私達の人生は、ずいぶん楽で豊かなものになると思われないでしょうか。しかし、現実には私達にはこのようなものがあり、どんなにがんばっても自分では取り去ることができないで、苦しむのです。まさに、キリストがなさったのは、十字架によってそれを処理し、許せないはずの人をも本当に許す力を私達に与えて下さる、ということでした。
「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5章7〜8節)
私達が今神様を信じているか否か、従おうとしているか否か、反抗しているか否か、あるいはこんなことをしたとか、こんな性格だとか、年はいくつだとか、そんなことには一切関係なく、神様はあなたを愛しておられ、その愛の現れとして、十字架という犠牲を払って下さったのだと語られています。
あなたのために、人はどんな犠牲を払って下さるでしょうか。しかし、キリストは、あなたがどういう人間であるかにかかわりなく、あなたのために死んだ−あなたの罪の身代わりになって十字架にかかり、罪の罰を代わりに受けた、と言って下さるのです。3つの苦しみの内、もう一つのものは“死”です。人間は必ず死にます。未知の世界に行くことには不安があります。その時にあわてふためくことのないように、死に対して確かな備えを持っておられるでしょうか。もう一つは“虚しさ”です。一生懸命趣味や仕事に打ち込んでみたり、子供に託してみたりしますが、心の底の虚しさはどうにも拭い切れません。キリストは、人がどうすることもできないこれらの問題に助けを与えるために、十字架で死んで下さいました。それこそが、愛だというのです。
愛を受け取る
愛する者のためには、その人が必要としていることをしてあげたいと思います。神様は、そのために命を捨てるという大きな犠牲を払って下さったのです。問題は、私達がそのプレゼントを受け取るかどうかです。神様は私達の人格を無視して無理やり押し入ろうとはなさいません。ただ心の戸の外にたって「私はあなたを愛している。私を迎えなさい。あなたの人生を新しくすることができるのだよ。」と語っておられます。あなたが心を開いてお迎えするならば、キリストはあなたの心に来て下さり、そこから愛する心、生きる喜びが流れ始めるのです。
ただ受け取るだけで救われる−そんなうまい話はないと思われるかもしれません。しかし、本当に大切なものはお金で買うことができません。イエス・キリストの救い(命の犠牲を払っての愛)は、もし仮に、何かをしなければもらえないものなのだとしたら、私達には難しすぎる、又払うには高すぎる価なのです。だからこそ、ただ一方的に、あなたを愛するゆえに、救いをあげようと言って下さるのです。私たちにできるのは、ただ「ありがとうごさいます」といって受けとることだけです。このキリストを心にお迎えして、新しい人生、内側から愛があふれてくる歩みを、共に体験させて頂こうではありませんか。