陰気な心
「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」(箴言17:22)
あなたはご自分の性格について悩んだことがありますか。表には出さなくても、深いところで悩んている人は、案外多いのではないでしょうか。私自身もかつては目分の性格がイヤで、皆の人気者になるような明るい性格の人をいつもうらやましく思っていました。あなたは1日のうちでどの位笑うことがあるでしょうか。笑うことは実際に内分泌の働きを良くし、そのために健康にも美容にも良いことがわかっています。反対に、陰気な心だと悪いことをすぐに自分に当てはめてしまい、更に自分を暗くさせてしまいます。そのような心の状態は私たちの人生観や生活そのものまで蝕んでしまうのです。陰気な人は、ここでまた、こんなのは自分だけだと思ってしまいがちです。しかし、同じような人は世の中に結構多いのです。性格はどうしようもないとあきらめないで下さい。そのような性格も変えることができるのです。
良いことに目を留める
「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」(ピリピ4:8)
明るくなる秘訣の第一は、良いことに目を留めることです。どこの家庭にも暗いことは必ずあります。もし、それに四六時中目を留めるなら、払たちの心は四六時中暗くならざるを得ません。反対に良いことが何一つないという家庭もありません。例えば、あなたが今ここに生きているということは、食べているということです。世界には今も飢えて亡くなる人が大勢いることを思えば、生きていることだけでも感謝のはずです。
なのに私たちはそれを忘れて、良いことなど一つもないと思ってしまいがちです。それが更に進むと、「どうしてこんな家に来てしまったのか、・・・そもそも生まれたこと自体間違いだった。」等々、何もかも呪い始めるのです。そうしているなら、自分の子供も又「どうしてこんな親に生まれたのか。」と悔やみ始めるに違いありません。自分だけでなく周りまでも暗くしてしまいます。イヤなことがある時にこそ、ぜひ良いことを思い起こして下さい。それだけで心が少し上向きになってきます。お母さんが明るくなれば、家庭の中も明るくなってゆくのです。
希望を持つ
明るくなるための第二の秘訣は、希望を持つことです。何かがあったとしても、希望があれば困難に打ち負かされることはありません。私たちがトンネルの中を躊躇なく進んでいくのは、向こうに必ず出口があると思うからです。もし出口があるかどうか分からないとしたら、すぐにやめて引き返してしまうのではないでしょうか。希望を持って歩む─それが大切です。ではその希望はどこにあるのでしょうか。聖書は次のように語っています。
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3〜5)
どんな苦しみの中にあったとしても、決してなくなることのない希望を持つことができる―その希望が神様の中にはあるということを、ぜひ知って頂きたいのです。
客観的にみる(自分を笑える心)
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Iコリント10:13)
私たちは困難に会う時、こんな目に会うのは自分だけだと思ってしまいがちです。自分のことだけしか目に入らなくなり、そうなると益々深く暗闇の中に沈み込んでしまうことになります。しかし、客観的にみていくならば、そのことで苦しんでいるのは自分だけではないと分かってくるはずです。あるいはまた、夫(妻)が自分の悩みをわかってくれないと不満がつのることがあります。
でも、結婚しているとはいっても、何十年も全く違う育ち方をしてきた二人です。三つ子の魂百までといわれるように、互いに結婚以前の影響の方がずっと大きいのですから、冷静に考えてみれぱ、分かってもらえないことがあってもむしろ当たり前なのです。それなのに私たちは「〜してくれない」とないものねだりしてしまいがちです。自分、自分とばかり言っている自分を客観的にみて、滑稽に思える余裕があるなら、同じ悩みがあっても、その生き方が随分明るくなっていくことでしょう。
新しく造られた者
私たちは上記のような方法で自分の生き方を明るいものに変えて行くことができます。しかし又同時に、それはちょうどペンキを塗るようなもので、本質的なものでないことも知っていなければなりません。塗ったペンキは時がたつとはがれてしまいます。もしあなたが本質的に変わりたいと思うなら、次の言葉に目を留めて頂きたいのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(IIコリント5:17)
だれでも―とはあなたのことです。条件はただ一つ『キリストのうちにあるなら』。別の言葉にすれば、キリストにお願いするなら(信じ、頼るなら)、あなたは内側から新しく作り変えられる、というのです。「私はこういう人間です。こんな自分がイヤで仕方ありません。」とキリストに一つ一つ正直にお話し、「自分ではどうしようもありません。何とかして下さい。」と願うなら、このような祈りにキリストは喜んで答えて下さいます。
ただし、それはすぐに一気に100%良くなるという意味ではありません。クリスチャンとは、いわば工事中の人ですから、依然として周りの方にご迷惑をかけることもありますが、しかし、だんだんと内側から、本質的なところで変えられてゆくことができるのです。私たちは、自分の弱さ、惨めさを人に見せてはならないと長年教えられてきたため、神様にも同じようにしてしまいがちです。でも、これではせっかくの神様の恵みを味わうことができません。人に求めるとがっかりしてしまいます。しかし神様にはいくら求めてもよいのです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)
とキリストはあなたに語っておられるのです。