劣等感
多くの人が劣等感の故に苦しんでいます。私自身もかつては劣等感の塊でした。父親の職業がイヤで劣等感を持ち、それ故に父のことまでも嫌いになっていきました。また、その結果人が恐くなってしまいました。劣等感がある時、私達は人を正しく見ることができなくなり、人間関係に様々な問題を引き起こします。一方で、世の中には劣等感をバネにして、人にバカにされないようにと頑張って事を為し遂げる人もいます。それによって優越感を持ち安心するのですが、それもまたちょっとしたことで、たちまちガタガタと崩れてしまう―そのようなものにしかすぎません。しかし、そのような劣等感から本当に解放されていく道があるのです。
「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたし(イエス・キリスト)のことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31〜32)
本物の真理は、私達を縛るものではなく、自由にするものです。私達が劣等感に縛られるのではなく、そこから解放される道がある―自分のあるがままをゆったりと受け止める自由を持つことができる、と聖書は語ります。
人と比べる
劣等感はなぜ起こるのでしょうか。端的に言えば、それは人と比べるからです。“自分は自分”と思えるなら劣等感を持つこともありませんし、素晴らしい人を見れば「素晴らしい」と心から言うことができます。ところが現実の私達は、つい人と比べて、“私なんか”となったり、“私だって”と背伸びをしたり、あるいは人をけなしたりと、様々な劣等感や優越感を持ってしまいます。
良いところを良いとしてほめ、弱さは弱さとして受け止めることができるなら、人間関係は良いものになっていくはずです。でもそのためには、どうしたらよいのでしょうか。答えは簡単です。人と比べることを止めればよいのです。神様はあなたを世界中に一人しかないユニークな存在として、他のものと取りかえることのできない大切な存在として造られました。ですから、一人一人が自分らしく生きることができるはずですし、またそうすることが大切なのです。にもかかわらず、私達はすぐに人と比べてしまいます。良くないとわかっていても、人と比べることを止められない、それが問題なのです。
罪と福音
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。罪という言葉には、悪い響きがあります。しかし、ここで大切なのは、それが罪であるならば、そこから変えられていくことができるという福音(よい知らせ=goodnews)なのです。例えば、あなたが検査を受けてポリープがあると言われたとします。それがもし良性のものであれば、あなたは喜ぶのではないでしょうか。病気で喜ぶのは変です。しかし、それが治るとわかったので良かったと思うのです。罪も同じです。聖書は、それが罪であるならば、赦され、きよめられていくことができると言います。ではなぜ劣等感と罪とが関係あるのでしょうか。それには、聖書でいう罪とはどのようなものなのかを理解する必要があります。人殺しや強盗はもちろん罪ですが、聖書は、うそやねたみも罪であり、更にまた、
「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ4:7)
と語るのです。
劣等感からの解放
「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(Iテモテ6:6)
人と比べて、あれもない、これもないと言うかわりに、自分に与えられているものを感謝する心があるなら、私達の生活も随分変わってくるのではないでしょうか。もしあなたがこれに同意されるならば、次に大切なことは、それにもかかわらず、すぐに人と比べてあれこれ言ってしまう自分の良くない思い(罪)を、神様の前に認める(告白する)ということです。そうするならば、あとは神様がそれを赦し、すべての悪からきよめて下さる―そこから解放して下さると言うのです。
私達は劣等感の結果、ねたんだり、嫉妬したりと、色々な束縛(不自由)の中に歩んでいます。もし、自分の努力でそこから抜け出すことができるのでしたら、ぜひそのようにしてみて下さい。人は「こうしよう」と心に定めることによってだけでも、随分変えられるものです。しかし、もしあなたが本気になってそれをやり遂げようとするなら、やがて、それがいかにできないものであるかが、本当の意味でわかることでしょう。その時はぜひ、「神様、〜できません。助けて下さい。」と祈ってみて下さい。今まで自分の努力ではできなかったことが、神様の力によって、だんだんとできるように変えられていきます。劣等感は、気付かないうちにあなたの人生を驚くほどに蝕み、あなた本来の素晴らしさ、持ち味を台無しにしてしまうのです。神様は私達をそのような束縛から解放し、自由を与える道を備えて下さったのです。