裁く心
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。・・・ 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:1〜5)
今日は私達の心の中にある“さばき”ということについて、考えてみましょう。私達は、家族であれ他の人であれ、そばにいる人を裁く心が自然にでてきます。ところが人を裁くと、かえってそれが自分のストレスを増す原因ともなってしまうのです。このことを、もう少し具体的に考えてみましょう。
例えば、《子供が「勉強する。」と約束したにも関わらず、ちっとも勉強しないでテレビばかり見ているので、「勉強しなさい!」と言ったら、子供はジロッと睨んで、次にふてぶてしい態度で私を無視した。》ということがあったとします。この中で、私が思ったことと、事実とを注意深く分けて見るとどうなるでしょうか。私は、“ちっとも勉強しないで”と思ったけれども、本当は私の知らない間に勉強していたのかも知れません。“テレビばかり見ている”と思ったけれど、たまたま私が見た時だけそうだったという可能性だってあるのです。
“ジロッと睨んでふてぶてしく無視した”と私には思えたけれども、本当はどうしても見たい番組だからダメといわれるのが恐くて顔を見られなかった、のかも知れません。これらは皆私が思ったことのなです。では、ここでの事実とは何でしょうか?それは“その時子供がテレビを見ていた”、ということにすぎないのです。自分の思い違いでカーッとなって叱りつけ、“誤解された”という深い傷を子供の心に与えてしまうことが、私達には案外多いのです。それは、自分で思ったことと事実とを混同したまま、こうに違いないと相手を裁いてしまうためなのです。
また、私達はしばしば相手を色メガネで見て、“あの人はこうだ”と決めつけてしまいがちです。好意を持っていた時にはとても親切に思えたのが、ある事件をきっかけに、同じその人がとても押し付けがましく、いやみっほく思えることもあるのです。こちらが悪い目(裁きの目)で見ていると、それが知らず知らず相手にも伝わって、その人もこちらを悪く思うようになっていきます。自分の中にある色メガネをはずして、事実だけを見ていくように自分を訓練していくことは、良い人間関係をつくる上でとても大切です。
自分の姿を知る者
「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」(ローマ2:1)
私達が誰かを裁きたくなった時、自分の胸によく手を当てて、自分の生活をビデオにでも撮ってみるように思い起こしてみて下さい。自分も案外同じ様なことをしていることが多いのではないでしょうか。三浦綾子さんの小説のなかに、『自分が一度もしたことがない、というような調子で人を責めてはいけない。』という意味の言葉がでてきますが、自分もまた同じ過ちを犯す者、犯し得る者だという事実を知ることは、とても大切です。そうすれば、人を裁く心も少なくなってくるでしょう。
とはいえ、私達の毎日は、人を裁きたくなるような誘惑に満ちています。そんな時、実際にどのようにして解決していったらいいのでしょうか。誰かとの間に問題が起こった時、まず初めは自分の思いを正直に神様にぶちまけることをおすすめします。『あの人は本当にひどい人です。こんなことをして・・・』実は、そうした時初めて「ああ、私はこう考えていたんだ。」と、自分の感情が分かってきます。『思っちゃいけない』と一生懸命押さえている時には、自分の感情に気付かずにいるのです。
『思っちゃいけない』と自分に言い聞かせているということは、実際にはしっかりそう思っているということではありませんか。それなのに、『思っちゃいけない』と思っているから自分はエライなどと錯覚してしまうのです。私達は、そんな風に思う自分の姿を見たくなくて、心にもお化粧をして立派でいたいと思ってしまいます。でも、自分の気持ちを正直に神様にぶちまける時、自分の中に本当は恨み・裁き・怒りなどがあったことに気付かされます。そうしたら、それを正直に認めて、神様に「私はこのような者です。」「それが問題なのです。」と祈って下さい。私達が自分の罪を認めて神様に告白するなら、神様は私たちの罪を赦しきよめて下さる、と聖書は約束しています。
赦された者
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1:9)
教会には、十字架があります。これは、キリストがあなたの罪の罰を、身代わりになって十字架上で受けて下さり、あなたの罪を赦し、きよめる方となって下さったというしるしです。“赦し”は神様からのプレゼントです。プレゼントは、受け取るまではあなたの物となりません。でも、「ありがとうございます。」と受け取るならば、それがあなたのものとなり、あなたの心が内側から変えられていくことを体験なさるでしょう。
自分が赦されていることを知る時初めて、他の人を裁く代わりに赦し、受けとめることが出来るようになります。自分は今までそんなことをしたことがないかのように振る舞うのは、偽善者(自らを偽る者)です。自分の内にある裁きや怒りをそのままにして、人のことをとやかく言うのは、自分の目の中の梁をそのままにして、人の目の中の小さなゴミを取ろうとするようなものです。まず、自分の中にある梁を取りのけるなら、それがどんなに痛みを伴うことかが分かり、他の人の目のゴミを除く時にも注意深く優しく出来ることでしょう。