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美しく老いる

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美しく老いる

「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。」(箴言16:31)

“光陰矢の如し”と言われるように、時はあっという間に過ぎ去ってしまいます。私達誰もが、いつか必ず老いを迎えなければなりません。何歳位から老いると考えるかは人によって千差万別ですが、どのように老いを迎えていくかは私達すべてにとって大変重要なことです。今日は、この「老い」ということについて、御一緒に考えてみたいと思います。「人生の秋」(ヘルマン・ホルベルス著)という本の中にある、次の様な詩をご紹介しましょう。

最上の業この世の最上の業は何?楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、従順に平静に、おのれの十字架を担う。若者が元気一杯で歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。老いの重荷は、神の賜物。古びた心にこれで最後の磨きをかける。誠の故郷に行くために己をこの世につなぐ鎖を少しずつ外してゆくのはまことにえらい仕事。こうして、何もできなくなればそれを謙虚に承諾するのだ。神は最後に、一番よい仕事を残して下さる。それは祈りだ。手は何も出来ないけれども最後まで合掌できる愛するすべての人の上に神の恵みを求めるために。すべてを成し終えたら臨終の床に、神の声を聞くだろう『来たれ我が友よ。我汝を見捨てじ。』と。「美しく老いる」という言葉がありますが、これはまさにそういう風に年を重ねた方の告白です。私達も、このように年をとれたらと願います。では、そうなるためにはどうしたらよいのでしょうか?

老いを迎える

字が見えにくくなり、顔のしわや白髪が目立ち始める・・・色々な処に衰えを感じ始めるのが「初老期」です。早い人は40才位から感じ始めます。この時期は「思秋期」ともいわれています。「思春期」が、大人になる前の心や体が大きく変化する時期であり、それにどう対処し乗り越えて行けばよいか思い悩む時、誰もが通る苦しい戦いの時であるのと同じ様に、「思秋期」もまた人生の大きな転機、戦いの時なのです。前に出来たことがだんだん出来なくなる、新しいことがなかなか覚えられない・・・そういう変化を受け止めがたく、不安やあせりが出てきます。ここで、そういう自分をそのまま受け止められないと、何度も同じことを聞くのが躊躇され、初めからもうダメだと逃げて自分の世界を狭くしてしまいます。むしろ今は新しいことを覚えるのに3倍の時間がかかるんだと認めれば、ちゃんとマスターしていけるのです。

また、この時期は「ウツ状態」になりやすい時です。「ウツ」は喪失感からやってきます。今までの体力が失われ、また子供も親のもとから離れて行きます。それは子供の自立という喜ばしいことのはずなのですが、子供が自分の所らから失われていくと感じてしまうのです。この時期は、あらゆる意味でウツになる要素を兼ね備えた時であり、また私達が人生の新しい局面に向かう時なのですから、誰でも不安になるのはむしろ当然です。こんなはずはないと否定するのではなく、そういう年代になったのだと正しく受け止めるなら、かえってそれほどひどく落ち込まなくてもすむのです。

やがて私達は更に年を重ね、「老年期」を迎えます。がんばりがきかなくなり、否応なしに自分の体の衰弱を認めざるを得ない時です。そしてついには「老衰期」を迎え、この地上での生涯を終えるのです。ある牧師婦人が年をとり、やがてボケの症状も加わって言葉を失っていきました。そして最後に残ったのは、たった3つの言葉でした。それは、「まあステキ!」「ありがとう」「良かったですね」。私達の最後には、どんな言葉が残るのでしょうか。それぞれの時をふさわしく生き、美しく老いていきたいものです。そのために必要なことは何でしょうか。

神と共に

『しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。』・・・私達が正しく生きる時、美しく老いることが出来るのだと聖書は語っています。では、正しく生きるとはどういうことでしょうか。

「主(神様)はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)

正しく歩むとは私達を造られた神と共に歩むこと、その時私達は美しく年を重ねて行くことができるというのです。神様は、私達がどんな状態であってもそのままに受け入れ、赦し愛して下さる方です。そんなうまい話はない、と思われるかもしれません。確かに私達が正直に自分の姿を見るならば、しまったと思うようなことが誰にでもあるものです。ですからそこに付け込んで、祟りだ・呪いだといって物を売りつける悪徳商法がはびこるのです。しかし、イエス・キリストはそれらの責めを、またあなたの弱さを全部御自身が担って、あなたの身代わりに十字架にかかった。すでに代価は支払われている。だから、あなたを赦し、そのままに受け入れ愛すことが出来るのだと言われるのです。

この方を信じて歩む時、今までとは違う新しい生き方が可能になってきます。あれもこれも出来なくなり失敗ばかりの自分、しかしそうであっても神様はそのままに愛し受け入れて下さっていることが分かれば、ひがみやねたみは出てきません。かえって心から「ありがとう」と言うことが出来るのです。“老いの重荷は、神の賜物”・・それは、自分が神様の前に価値ある者として受け入れられていると知ることから来る心の想いです。この神様を心にお迎えする時、たとえ私達の肉体は衰えていくとしても、内側から日々新しくされる命に生きることができるのです。この命の中に豊かに生き、美しい老いを迎えていきたいものです。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(IIコリント4:16)

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