救い主の誕生
「わたし(キリスト)は、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
今から約二千年前、ユダヤの国のベツレヘムという小さな町で1つの大きな出来事が起こりました。救い主イエス・キリストが生まれたのです。それ以来二千年にわたって、世界中で「クリスマスおめでとうございます。」と祝われるようになりました。考えてみれば、これは大変不思議なことではないでしょうか。しかも、キリストの誕生はその何百年も前から預言され、多くの人がその日の来るのを待ち望んでいた、というのです。いったいこの世界に、そのような人がほかにあったでしょうか。
当時「救い主はどこでお生まれになりますか。」と聞けば、「ユダヤのベツレヘムです。」とすぐに答えられるほどに、人々はその預言が実現する時を待ち望んでいました。中でも特別に不思議な預言の言葉がありました。「その救い主は処女を通してこの世に登場する」というものです。そんなことがあるはずがない―その通りです。でも、「もしそのあり得ないはずのことが起きたなら、それこそまことに世を救う救い主が来られたという証拠なのだ」と、聖書はその何百年も前からイザヤという人を通して預言していました。そしてその通りのことが、今から約二千年前にマリヤという1人の女性の上に起こった、と聖書は記しています。
キリストの生涯
まだ結婚もしていないマリヤに赤ちゃんが宿った・・・。 当時マリヤはヨセフと婚約中でした。マリヤのお腹がだんだん膨らんでいくのを見て、誰よりも驚いたのはヨセフだったに違いありません。彼が悩み考えあぐねている時、神様は夢の中で『マリヤの胎に宿っているのは、聖書の預言通りの救い主である』と語られ、ヨセフはその御言葉をそのまま受け取りました。そしてマリヤを妻として迎え、天使に告げられた通り、生まれた子供にイエスと名付けたのです。
こうしてヨセフの子供として成長したイエスは、30才をすぎた頃からまことの神の子としての働きを始められました。多くの所に出て行き神の国を宣べ伝え、多くの奇跡や偉大な出来事を人々にあらわしたのです。人々は、聖書に預言された通りの救い主がお生まれになった、イスラエルを再興して下さる王が来られたと、イエスを喜び迎えました。ところが、ユダヤ教の祭司長たちはイエスの人気を妬んで彼を捕らえ、ついには十字架にかけて殺してしまったのです。しかし、そのことも又イエスが前々から人々に語っていたことでした。
『私は十字架につけられる。しかし三日目に甦って救い主としての姿を現す。』との御言葉通り、三日目の朝、イエスが葬られた墓には体をおおっていた布だけが残され、イエスの体がなくなっていました。そればかりか、『私はイエスに会った』という人々があちこちに現れたのです。イエス・キリストは死から甦り、そのことによってご自身が本当に神の子であり、聖書に記された通りの救い主であることを人々に知らせたのです。キリストは、その生涯の中で、このように語られました。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)
「わたしが来たのは、羊(であるあなた方)がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)
豊かな人生
二千年前の出来事―イエス・キリストの誕生は、私達と決して無関係ではありません。キリストは、私達が「命の光」を持つために来られた、と聖書は語っています。私達は表から見れば、それほど大きな問題を抱えているようには見えないかもしれません。それどころか、一見何の陰もなく、人生の表舞台を歩き続けているように見える人もおられることでしょう。しかしそのような人ですら、もしかするとその心の中には、どうすることも出来ない闇を抱えているのではないでしょうか。たった一人でいるときに、どうにもならない虚しさや孤独感、不安や恐怖におののく時があるのではないでしょうか。許すべき人を許すことができない。するべきなのに、することができない。やってはならないことを、ついやってしまう。自分で自分をどうすることも出来ないと感じるのです。しかし、その心のヤミにこそ、『わたしは、世の光です。』と言われるキリストが来て下さり、決して消えない光をともして下さる、と聖書は語っています。
私達が、もし素直な心で自分の歩んできた道を振り返るなら、確かに私にも本当の光が必要だ、本当に心に満ちるものをいただきたい、と願うのではないでしょうか。そして、確かに神様は私達に、そのような希望と光を持った人生を用意しておられるのです。たった一度の人生です。そのあなたの人生が、真に豊かなものになるために、キリストは来られました。神様はあなたの心の戸をたたいておられます。たとえ自分には関係ないと思っていたとしても、神様はノックしておられるます。もし私達が心の戸を開いてキリストを迎え入れるなら、私達の心にも光がともり、今まで知らなかった希望と喜びと命にあふれる人生が、自分のものとなっていくのです。
この年が、皆さんにとって、クリスマスの本当の意味を祝う時となりますように。