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子供の本当の姿が見えていますか?

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cherylholt / Pixabay

「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22:6)

子供の本当の姿が見えていますか?

上記の問いにあなたは何と答えるでしょうか?「赤ちゃんの時からおむつを換えているんだから、もちろん私が一番よく知っているわ」と答える方。「最近子供が何を考えているのか良く分からなくなった」という方。・・・私達は案外、私の子はこういう子だという「思いこみ」、あるいはこういう子であって欲しいという「期待」や「願望」、こうした「色メガネ」を通して我が子を見ていることが多いのではないでしょうか?

色メガネを持って見ていると、子供の本当の姿が見えてきません。まず色メガネをはずして、子供のありのままの姿を見るようにする、たとえそれが自分の好みと合わなくてもです。例えば、男の子ならしゃんとして欲しい。でもこの子は優しい子なんです。だったら仕方ありませんね。子供の性格・傾向を知っていくこと、そして神様がその知恵の中で我が家にはこういう子をと与えて下さったのですから、それを神様からの賜物として受け取っていくことから始めましょう。

反抗期は自己確立期

さて、今日は特に親子関係が難しくなる時期、いわゆる「反抗期」の周辺に焦点を当てて、子供との関わり方を考えてみたいと思います。ただし、この「反抗期」という言葉は、この時期の子供たちを表すのにふさわしい言葉とはいえません。なぜなら、これはあくまでも親の側から見た描写であって、否定的なイメージです。しかし実は、これは子供の成長にとってとても大切な時なのです。親の目には反抗的に見える行動や言葉でも、実は子供達がやっているのは、自分は自分なんだ、親の一部ではない、お母さんのロボットじゃない、トロフィー(自慢の種)にはなりたくない、・・そういう意味で自己が形成され、人格ができていく大切な自己確立期なのです。それが分かれば、「何て反抗的なイヤな子!」ではなくて、「自己が確立されているなら…」と寛容にもなれるし、「そのために親の私はどうしたら手助けができるんだろう」ともっと積極的な関わりができるのです。

ただしここで注意すべきなのは、“うちの子は反抗期があったから大丈夫”と単純に考えてはならないということです。華々しい反抗をしたとしても、その時期を過ぎた後に、相変わらず人に甘えてばかりで自分で責任がとれず、なんでも世の中が悪い、親が悪いと責任転嫁をしているなら、自己確立ができていないということです。反対に表立った反抗がなくても、いつの間にか自分で考え決断できる、失敗してもそこからやり直せるようになっているなら、それは自己確立が進んでいるということなのです。

子供を教育するとは・・

聖書の原語であるへブル語の『教育』という語には『訓練』という意味合いが含まれます。運動のトレーニングを思い浮かべるとわかりやすいのですが、目標に向かって一気に行くのではなく、段階ごとのプログラムを組んで、繰り返し繰り返しマスターするまで忍耐強く(時には一度出来たことが出来なくなるということもあるでしょう)、時には知恵を使い、ユーモアのセンスを駆使して教えるということです。にもかかわらず私達はそれを忘れて、一回口で言えばできるようになると錯覚し、「さっき言ったのにどうして出来ないの」と言ってしまうのです。何度言ってもわからないなら、言い方を変えなければ意味がない、私達の言い方・やり方に工夫がないと、子供は訓練されない、学ばないということなのです。

さて、聖書は親に従う子に育てなければならないと教えています。でも、もちろんそれは何でも親が子供を思い通りにしていいということではありません。また、ヤル気が無くなる程とことん子供を痛めつけたり、子供が怒る程その意志・人格を壊してはなりません。でも、どんなに小さい子であっても、泣き声一つで親をあたふたさせ家中をコントロールする暴君のスピリットを持っている、その部分は砕かれなければならないし、また、親の顔をチラチラ見ながらいけないと分かっていて子供が何かする時、そのような反抗心は砕かれなくてはならないということです。特に小さい時に、子供のちょっとした兆候が見えた時にすぐ対応する。後になればなるほど難しくなります。

何か一つどうしても子供に教えたい、従わせたいということを決めたら、まず子供の目を見て心に届くように話します。そして子供が本当に従ったかどうか最後まで見届けます。ここまでしないと、子供の方では言われてもしなくてもいいこともある、怒られたら守ればいいんだと、適当に選んでしまい、親に従うという根本的な態度が身につきません。また、叱る時には大きな声を出さないことです。子供は小さい声の方に反応しますし、何よりも大声を出せばそれによって自分がますますエスカレートしていくばかりです。これは私達の自己訓練です。

第1次自己確立期(2-3才)のワガママで訳の分からない子供を育てている親達もまた、この時第3次自己確立期―成長の時を迎えているのです。そして、もう一つ気をつけなければならないことは、子供は1人1人皆違うということです。子供を良く見て、その子に最もあった対応をしなければなりません。また成長のスピードもそれぞれです。成人を目標にすればいいのですから、決して焦る必要はないのです。その子にあったペースで進むことが大切です。また、普通私達は上の子には厳しく下の子には甘くなりがちです。むしろ意識して上の子は下の子の前でほめ、下の子には厳しく教えていくことを心がける必要があるのです。

若者をその行く道にふさわしく・・

私達はしばしば、子供のいく道は親が考えてあげるべきだと思っています。確かに子供が小さい内は親が善悪を教えていかなければなりませんが、だからといって親のイメージ通り、親が人生の先輩としてこうしなさいと決めた道が、聖書が言う「その行く道」ということなのではありません。それは子供自身が決めて行く道であり、神様がその子に与えて下さった性質、特徴に従って、その良い面を伸ばすように訓練して行く、またその訓練の方法もその子の特質に合わせてということなのです。

子供はそれぞれに良い所を持っています。でも、親はそれもいいけれど、正反対のものも全部欲しい。運動の出来る子に音楽も出来て欲しい、と無理なことを求めてしまいます。よその子はいい子に見えてしまうのです。そんな時はちょっと隣のおばさんになった気分で子共を見ると、「こういうのもいいな」と思えるのではないでしょうか。そして、子供が小さい時は厳しくし、中学・高校・大学とだんだん手綱を緩めていくことが大切です。思春期といわれる第2次自己確立期に手綱を緩めるのは親にとって大きな不安です。

しかし、レールを引いてそこを歩ませるなら、親は気持ちが良いかもしれませんが、それでは本物ではありあせん。手綱を完全に手放す訳ではありませんが、かなり緩くして、祈りながら、〜こんなはずではなかったのにという時期を親も子も通らなければならないのです。この時期の親は、今までの既成概念をはずして頭を柔らかくし、新しいことを(はっきり黒といえないものについては、たとえ自分の好みに合わなくても)受け入れていく、新たな成長の時―第4次自己確立期を迎えているのです。

最後に、私達は不機嫌との正しい関わり方を体得していかなければなりません。どうしても子供は不機嫌になります。夫でも同じでしょう。するとなぜかこちらにも不機嫌が伝染してしまったり、あるいは、相手の不機嫌は自分のせいの様に感じて下手に出てしまったり・・。もちろん本当にこちらに原因があるときは謝ることも必要ですが、多くの場合私は言うべきことを言ったまでなのです。相手の不機嫌はその人の問題として、目に見えない線を引くことが重要です。私まで不機嫌になるとそれは必ず悪い対応を引き起こし、相手はさらに不機嫌になるという泥沼にはまってしまうからです。その人の不機嫌はその人に任せておく、それが良い結果を生むことの方がずっと多いのです。

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