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コンプレックス

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geralt / Pixabay

コンプレックス

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

皆さんは何か自分にコンプレックスをお持ちでしょうか? というよりは、コンプレックスを全く持っていないという方がおられるでしょうか? ほとんどの人にとって、コンプレックスはついて回っているようなものではないかと思います。しかし、それ故に私達は不自由になって、その人本来の良さが現されないことも多いのです。

さて、コンプレックスというと日本語では劣等感という意味で使われますが、英語では元来、劣等感(inferiorcomplex)にも優越感(superiorcomplex)にも共に使われている言葉であり、それからも分かるとおり、実は劣等感も優越感も元は同じ根から出ているのです。だから、ある時は人と比べて優越感に浸りいい気持ちになっていたとしても、いつそれが劣等感に変わるかわかりません。どちらも本当は紙一重、この両方から解放されなければ、本当の意味で自由な、自信のある生き方はできないのです。

あらゆることが私達のコンプレックスの原因になり得ます。そして私達は普通、これは持って生まれたものだから仕方ないとあきらめていることが多いのですが、でも本当にそうなのでしょうか?生まれたばかりの赤ちゃんが「自分は何て小さいんだ」と思い悩んだりするでしょうか?コンプレックスは生まれつき持っているものでもなければ、誰か他の人から押しつけられたものでもありません。それは私達が自分で作り上げて来たものであり、作ってきたものならばそれを打ち砕くこともできるのです。そこには発想の転換が必要です。

コンプレックスは、私達が人と比べて自分の価値を見るという“比較の世界”に生きてきたために生じます。しかし私達が比較の世界で生きるのをやめて、それを自分の個性・自分の特徴として見ることが出来るならコンプレックスから解放されるのです。例えば「自分は優柔不断でイヤだ」とあなたが思っているとします。“優柔不断”という言葉自体すでに劣等感をもたらす語です。でも優柔不断ということは、言い換えれば色々なことを良く考えるのですぐには決められないということですから、そこをみて「私は考え深い人間だ」と言うこともできるのです。それはまさにあなたの個性です。聖書の神様は、私達に対して

「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

と語っておられます。神様の目から見るとき、私達1人1人は皆かけがえのない大切な存在なのだ、というのです。では、“かけがえのない存在”とはどういうことでしょうか?あなたのお子さん、あるいは親御さんのことを考えてみて下さい。ちょっと怪我して弱ったから違うものに取り替えよう、同じような顔をしてるからいいや、と考えるでしょうか?そうではないでしょう。たとえ、ここがもう少しこうだったらと思うことが色々あったとしても、別の誰かが来たのでは満足しない、それでは困るのです。それが“かけがえのない”ということであり、まさに私達1人1人は神様の前にそのような存在なのです。ですから私達は、人と比べて生きるのをやめることがまず第一に必要です。しかし、それだけではコンプレックスから完全に解放されることはできません。

コンプレックスからの解放

私達がコンプレックスを持つに至ったにはそれなりの理由があり、深く傷ついた経験があるのです。ですからそこにも正しい対処が為されなければなりません。私自身、以前は劣等感の固まりという生き方をしてきました。そのきっかけとなったのは、小学校に入学したばかりの時、慣れない集団生活の中で失敗をして友達に何度もひどくからかわれたという経験でした。もう自分には生きる価値がないと思えるほど、世界中で一番惨めでダメな人間だと思ってしまいました。

一つイヤだと思うと、自分の何もかも全部がイヤになります。ある時は自分の一挙手一投足を、これはおかしくないだろうかと過剰に意識したこともありました。こんな時に自分の中から良いものがでてくるわけがありません。人が何でもない話をしていても、何か自分が批判されバカにされているように感じて、1人心を痛めてしまうのです。友達が欲しいと思っているにも関わらず人の中に入っていけない…自分は人から嫌われると思いこんでいたのです。

コンプレックスを持っているとき、このように私達はなぜか不自由なおかしな生き方をしてしまいます。私達がそこから解放されるためには、自分の心にあるコンプレックスをごまかしたり逃げたりするのではなく、それを正面からみていくことが必要です。なぜなら、それをいやし赦して下さるお方がおられるからです。

「しかし、彼(イエス・キリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

イエス・キリストが十字架にかかったのは、私達の罪を赦し、また私達の傷をいやすためであったと聖書は語ります。あなたの心にも、思い出すだけで傷つくような場面があり、それ故にコンプレックスに陥ってしまっていることがあるかもしれません。もしそうなら、それをそのままキリストのもとに持っていって頂きたいのです。「私はこの事で本当に傷つきました」「本当に悲しかったです」「辛かったです」。その時、キリストがあなたの傷をいやし、心に平安を下さるでしょう。あるいはまた、様々なことが自分の罪のゆえに起きたということもあるでしょう。もう取り返しがつかない・・・。しかし、だからこそ、その罪を赦しきよめるためにキリストが十字架で死んで下さったのです。

私たちは自分のプライドが邪魔をして、自分の惨めな姿をそのまま言うことができません。でも神様の前では立派に見せる必要はないのです。惨めで傷ついた姿をイエス様に正直に申しあげる時、イエス様はその心の傷にふれて下さり、いやし、解放してくださるのです。その時、自分のコンプレックスであったことさえも、平気で受け止めることが出来るようになるばかりか、それまでの辛い出来事のすべてが神様の御手の中で、良きことに変えらていくのを体験なさることでしょう。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

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