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心の満たし

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皆さんは“何かを食べたいのだけれども何を食べたいのか分からない”ということがあるのではないかと思います。「あれでもない、これでもない」と、目の前にあるものを食べ始めるのですが、なかなか満足できません。これと同じように、私たちの心も、何か求めを感じていながらも、“何によって満たして良いかわからない”ということがあると思います。
わけのわからない寂しさ、虚しさ、悲しい心…実はこのような心の状態は、悪いものではなく、人間が人間として生きることができるようになるために、神様が私たちに与えられた切実な求めであることが多いのです。

生ける水の川

イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである。(ヨハネ7:37~39)

このような経験をするのは、特別な人、素晴らしい人、真剣に求めている人だけだと思いがちですが、そうではなく「だれでも」なのです。条件は「渇いているなら」です。もっと正確に言いますと、『渇いていることに気がついた人は』ということです。いろいろ趣味を持つことは良いことですが、それでは紛らわすことができない。おいしいものを食べても、綺麗な服に身を包んでみても、どうも満足しない。様々なことをしてみても何か心がいま1つしっくりとこない。それは心が飢え渇いているからなのです。あなたの心があるべき所にいないからなのです。ですから虚しい、寂しい、悲しいと魂が叫んでいることに気付いたならば、「わたしのもとに来て飲みなさい」と言われるイエス・キリストを求めて頂きたいのです。
私たちが、居るべき場所に帰って来た時に、私たちの心の奥底から生ける水の川が流れるようになるとのお約束なのです。その現われ方や感じ方は違いますから、怒涛の波のような変化もあれば、ちょろちょろとした流れのような変化から始まるかは分かりませんが、だれでも心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになると言っているのです。また、次のようにも語っています。

わたしは潤いのない地に水を注ぎ、渇いた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたの末に、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。(イザヤ44:3)

主は絶えずあなたを導いて焼け付く土地でもあなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは潤された園のようになり、水の涸れない源のようになる。(イザヤ58:11)

私たちの心は時に荒れ果てた地のようになっていないでしょうか。しかし聖書は「たとえそれが砂漠のような、完璧に渇ききった地でも川ができる。神様はそこを満たすことができるし、私たちの心が潤された園のようになるのだ」と言っているのです。そんなことはあり得ない、信じられないと思うかもしれません。でも心に「本当ならば、そうなりたい」という思いがあるなら、神様にそのまま申し上げたら良いのです。神様はそのような正直な心の願いに応えてくださるのです。

わたし(イエス・キリスト)が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます (ヨハネ4:14)

このようないのちの水があなたの前に提供されているのです。もし「いのちの水を私にもください」と求められるならば、あなたのうちにも、生き生きとしたいのちの水が湧き出るようになるのです。

心の満たしを受けるためには

これは、イエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである。イエスは、まだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(ヨハネ7:39)

イエスを信じる者とは、どういうことでしょうか。イエスが存在していたことを信じるのでしょうか。もちろんそのことも含まれますが、本当の意味は『イエス・キリストが私の身代わりとなって十字架で死んでくださったゆえに、私の罪が赦された』ということを信じることなのです。十字架は、死刑執行台です。多くの人が十字架を素敵なネックレスとして使っていますが、実はこれは死刑執行台をアクセサリーとして首からぶら下げていることになるのです。なぜそんなことをするのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架以来、それが愛の象徴に変わったからです。なぜでしょうか?
実は私たちが豊かないのちを受けるのを妨げているものがあります。それが罪なのです。私たちが罪を持ったままでは、神様は良きものを与えることはできないのです。ですから、私たちの罪を解決するために、神様はひとり子であるイエス・キリストを十字架につけて、あなたの罪を処理されたのです。神様は愛であり、すべての人がこの豊かないのちを預かることを願っておられるのです。
プレゼントは相手の人が「要りません」「間に合っています」と言って受け取らないならば、いつまでたっても、その人の物にはなりません。神様は私たちの自由意志を尊重なさる方です。「要りません」と言うなら、それ以上強制はなさらず、受け取るようになるのを待っておられるのです。受け取るか受け取らないかは、私たちの決断次第です。この神様の申し出を受け取った人は、罪が赦され、その人にいのちの水を注ぐと言ってくださっているのです。
神様は、あなたに恵もうと待っておられます。最初は半信半疑でしか言えないかもしれませんが、神様は私たちの、つたない祈りを喜んで聞いてくださるのです。「私にも生ける水の川をください」と祈りさえすれば良いのです。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)

「わたし」とはイエス様のことです。心の扉をイエス様が叩いているのです。心の扉は内側からしか開けられません。外からどんなに叩いても大声で叫んでも、閉めておけば開けられないのです。
私たちは他人の目を気にする必要はないのです。ただ私たちにいのちを与えてくださる神様に向かって、「イエス様、私も信じてみたいのです。心を開いてみます」と祈ってみて頂ければと思います。そして心が少し軽くなったように感じたら「これは神様ですか? だったらもっとよく分かるようにしてください」「安らぎを大きくしてください」「喜びを大きくしてください」とドンドンと求めてみて頂きたいのです。神様は私たちの求めに無限に答えてくださる方なのです。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7~8)

もしたちが生活の中で、直面する様々な問題の中にイエス様を心にお迎えし助けを求める時、心が少しずつ変わっていきます。祈りから神様を知り体験することが、私たちには一番分かりやすい神様を知る道かと思います。神様との密かな祈りの関係を是非作ってみて頂きたいのです。

してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:13)

もし私たちが、主イエスの十字架によって、罪を取り除いて頂くなら、天の愛なる神様は、喜んで私たちの祈りに応え、また、いのちの水である聖霊を豊かに注いでくださるのです。

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