本日は、人生の意味を語っている伝道者の書から学ばせて頂きたいと思います。伝道者とは、本当の生きる道を伝える者という意味で、恐らくイスラエルの二代目の王であり栄華を極めたソロモンが書いたと思われます。
私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。…私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。私は男女の奴隷を得た。…私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。…私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。(伝道者の書2:1~39)
心の虚しさ
これは、当時最も栄え、最も祝福され、最も恵まれたソロモン王の感想です。私たちは、お金、名誉、知識、やる気、成功などが満たされたら幸せになれると思っている方が多いと思います。実はこの人は本当にそれらを実現させた人なのです。けれども彼は、それらがみな、虚しいものであることを実感したのです。これらに希望がないならば、いったいどこに希望を見出すことが出来るのでしょうか。私たちがなぜ虚しさを感じるのか、虚しさから解放されるためには、どうしたら良いのかを見ていきたいと思います。
フランスの哲学者、自然哲学者(近代的物理学の先駆)、思想家、数学者、キリスト教神学者であるパスカルの代表作は「パンセ(思索)」です。あの有名な「人間は考える葦である」という言葉があります。葦は風が吹くと倒れてしまうような弱々しい植物。人間もそれと同じようなもの。しかしただ弱々しいだけではなくて、人間は考えることができる葦だというのです。
人間に無意味な行動を続けさせていくと大概の人は精神的に参ってきてしまうそうです。「なぜこんなことをしなければならないのか、自分の行動にどんな意味があるのか」そのようなことを考える存在として人間は造られています。にも関わらず、行動自体に意味を見いだせないと、考えることも止めてしまう。私たちは考えることができるのに、「私はなぜここにいるのか? そんなことを考えても仕方ない」と自分の生きる意味を考えることを止めているのです。なぜでしょうか? そこに答えがないと知っているからです。しかし果たして本当に答えがないのでしょうか。実は、聖書の中には、その答えがあるのです。
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者の書12:13)
いろいろなことをやるけれども、究極的に知るべきことは「神が存在している」ということ。私たちは、その神の前に正しい生き方をしていく時に、人間の存在する意味と目的を知った生き方が可能になるのです。反対に神を無視した生き方をしていると、どうなるでしょうか。
ここにアナログの腕時計があります。時を刻むために針が回っています。もし時計が「なぜ自分はいつもグルグルと針を回しているのだろう」と時計自身が自分の存在意味を考えているとしたら、その答えは出てきません。時計は、時計自身のために作られた物ではなく、人間が便利に使えるために、人間のために作られているからです。
人間と共にある時に、時計は非常に意味がありますし、有意義な存在になっています。ところが人間を離れてしまった時計は、金属の塊でしかないのです。聖書は私たちが神に向けて造られているので、神にあって生きる時、その意義を知るのだと記しています。
心の虚しさから解放されるためには
人間をギリシャ語では、「アンスローポス」と言います。「アン」は「上に向かって」、「スローポス」は「顔を向けて」という意味です。その合成語が「人間(アンスローポス)」です。上に向かってとは、天地を造られた神の方を向いてということです。神の方を向いて生きていく時に、人間は人間らしい本来の生き方ができるようになっていくのです。天地を創造された神、私たちを造った方を離れて何かをしても、私たちの心は虚しく満ち足りないのです。
かつてマラソンランナーの高橋尚子さんが優勝インタビューで「すごくうれしいけれども、少し寂しいです」と答えていました。今まで優勝を目指して懸命に努力をしてきた。遂にその願いが叶った。嬉しい気持ちと同時に獲得した瞬間に、目標が消えてしまった。何か分からない寂しさ、虚しさが残ったことを正直に語ったのだと思います。
私たちも短期の目標に向かって頑張ることができます。でもそれを得た瞬間に何ともやり切れない思いや寂しさを抱えてしまう。私たちの生き方も同様に神のもとではなく、名誉や地位、美味しい食べ物や楽しい活動を求めます。戻るべき場所に向かっていないのですから、「本当はこんなものではない」と感じるのは当然なのです。
私たちが神様に帰ってくるまでは、満たされない思いを絶えず持っているはずです。普段はそんなに気が付かずに無視して誤魔化していますが、ふとした時に、その現実に直面することが多いのです。私たちは戻るべき方の所に戻ってくる時まで、虚しさの旅を続けるしかないのです。けれども神様は虚しさを通して「あなたは戻ってくるべき所があるのではないですか」と問いかけてもいるのです。神様はそのように私たちに呼びかけてくださっているのです。
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。(Ⅰコリント10:32)
飲食は、動物が生きるための最低限の必要です。けれどもそのことすらも神の栄光を現すためにせよというのです。すなわち神のために生きることが、あなたの本分であると教えているのです。
皆さんが生きがいを持てた時はどういう時でしたか? それは誰かのために自分が役に立っている時に、一番生きる意味を感じたのではないでしょうか。でもこれは多くの人が考えている幸せの法則とは真逆です。私たちは、もっとお金を得たら、もっと名誉を得たら、もっと、もっと得られたら幸せになれると思ってきました。ところがその生き方では本当の満足は得られないのです。
聖書には、「愛のない者に神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」と書かれています。愛とは与えることです。誰かの役に立つこと。私たちが愛に生きることができる時にとても満足感があるのです。現実には自分が損をしていてもです。私たちは誰かの役に立つために、他人を愛するために生かされているのです。けれども他人に裏切られることもあります。こちらの思いが通じないということもあります。かえって恨まれることもあるかもしれません。ところが決して裏切らない方がいます。私たちの思った通りを受け取って下さる方がいる。それが神様なのです。
そして神様はあなたの行いや心を顧みて下さるのです。神様が私たちのすべてを見ていて下さり、報いて下さるならば、これに勝る生き方はないのではないでしょうか。他人に褒められるためではなく、目には見えなくても私たちの全てのことをご存じの神様の前に、神様のために歩むことを是非始めて欲しいと思います。