本日は毎春恒例のお茶会です。茶席が設けてあり「和敬静寂(わけいせいじゃく)」の軸が掛けられています。「四規(しき)」という言い方もするようです。
『和』とは、お互いに心を開いて仲良くするとうことです。
『敬』とは、尊敬の敬で、お互いに敬いあうという意味です。
『静』とは、清らかという意味ですが、目に見えるだけの清らかさではなく、心の中も清らかであるということです。
『寂』とはどんな時にも動じない心です。
お茶を飲むとき、お点前をするとき、また、お客様になったとき、お招ねきしたときなどに、この「和敬静寂」ということばを思い出したいものです。
おもてなしの心
茶は服のよきように、炭は湯の沸くように、夏は涼しく冬は暖かに、花は野にあるように、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ。(『裏千家ホームページより)
これは、一人の弟子が「茶の湯とはどのようなものですか」と利休に尋ねた時の答えだそうです。茶の湯を一言で表すならば「おもてなしの心」と言われています。
外国の方々が「おもてなし」に非常に感動されているようですが、その原点の1つは茶の湯の中にあるかと思います。「おもてなし」それは、他人を思いやる心だと思います。本日も聖書から、他人を思いやる生き方を見ていきましょう。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。(マタイ7:12~13)
ここは、聖書の黄金律とも言われています。「何事でも自分にしてもらいたいことは、他人にもそのようにしなさい。」私たちがこのように歩むことができたなら、人間関係は穏やかで清々しい気持ちになるのではないでしょうか。
茶室のにじり口は2尺2寸(67センチ)。巾は2尺1寸(64センチ)です。茶を楽しんでいたのは、当時の武士たちです。小さな口ですので、帯刀したままでは茶室に入ることができません。武士が刀を外すというのは、大変なことです。利休は、茶室の中では、プライドや格式など全てを取り除き、和敬の心で茶室に入り、心を割った交わりを持つことを意図しました。
しかし私たちは、そう言われても、普段から「ちょっと」という苦手な人がいると「えっ。あの人が来たの」と、その瞬間に凍り付いてしまいませんか。期待して来たのに、嫌な一日になってしまったという気持ちになる。こんなことになりかねないというのが正直なところかと思います。私たちの心がにじり口に入る備えができていないわけです。
それらを捨ててそこに入り、互いが平等に相和す世界を持つということなのですが、私たちは、良いと分かっていてもできない。それが本音の悩みと言えると思います。
私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。(ローマ7:14~15)
自分でも、成すべきことを分かっている。しかし、それを指摘されるとムカっとくる。正論を言われると反発してしまうものです。では、そういう私たちはどのようにすれば良いのでしょうか。
神に祈る
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(イエス・キリスト)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)
多くの方がこの言葉で、励まされています。皆さんが苦しい時、辛い時、厳しい時に、この言葉を思い出すだけで、心が軽くなる経験をされると思います。
「あなたの問題をこちらに持ってこないでくれ」「面倒なことは遠慮します」というのが普通の考えです。しかしイエス様の教えは違うのです。「問題のある人、苦しんでいる人、全て疲れた人、そのような人たちこそ、私のところに来てください」なのです。
具体的には「祈ってみなさい」ということです。あなたの苦しいこと、辛いことを祈ってくださいということです。そうすると神様が私たちの重荷を担ってくださると言うのです。他人に呟いたとしてもその問題は解決しないでしょう。誰も自分に触れようとしないその時に、火中の栗を拾うかの如く、私たちを救ってくださる方がいることを是非、覚えておいて頂きたいのです。
そうすれば、いざという時に「神様」という声が出ると思います。どこにも希望がなく、皆に捨てられたとしても、私たちには希望がある。あなたがどんな状態であっても、疲れていても、弱っていても、どうにもならない状態でもそのままで「わたしはあなたを待っている」と言ってくださる方がいるのです。この方が、私の味方であり、守ってくださるということが分かってくると、私たちは、本当の意味で強くなっていくのです。
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:28〜32)
私たちが平安であり、力を得るためには、私たちの近くにいて、本当に私たちの力になってくださる方を思い起こす事が大切です。もし神様が全ての物を造られた方であるならば、どんなことがあっても安心できるのではないでしょうか。私たちはできるだけ大きく力ある方に頼ろうとします。それは、その人は、何でもできるからです。だとするならば、私たちが一番頼りになるのは、神様という方であると気がつくのではないかと思います。
若い時は、あれもこれもできた。しかし年を重ねるごとにできることが少なくなってくる。すると不安になってくる。しかしそういう者にも力と活気を与える。必要な時には助けを与える。どういう状況であろうとも、変わりなく頼ることのできる方。それが天地を造られた神であるということ。是非、この神様を知ることの恵み、神様の祝福の力を味わってくださったならと思います。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7:7)
皆さんは、今まで神様にお祈りをしたことがありますか。この言葉は、厳密には「求め続けなさい」なのです。一回求めて終わりではなくて、求め続けていく。私たちは少し祈って応えられないとダメだと思ってしまいます。祈りが応えられない理由は、信じて祈らないからだとも書いてあります。「信じて祈る」とは、応えられるまで期待して祈ってみるということです。そうして神様は応えてくださることを何度も経験していく時に、「やはりこの方こそ、私が一番頼りにできる方であり、いざという時にこの方と共に歩めば大丈夫なのだ」という経験をするのです。与えられるまで求める。開かれるまで叩き続ける。そういう祈りを是非してみてください。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ40:10)
これが神様の言葉です。実際に神様に頼った時に「本当に守られた。本当に助けてくれた」と告白する人がたくさんいます。是非、ただ聞くだけではなくて、もう一歩「本当にそうならば、私にも教えてください」と神様に向かって祈っていただけたらと思います。