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無条件の愛

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わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43章4節)

無条件の愛

「愛の泉」という働きをしているある宣教師がいました。模範のような愛にあふれる素晴らしい彼の家庭も、昔は全く違っていたといいます。亡くなった前妻の子は後妻になつかず、これでもかというほど継母を困らせていました。ある日、その子が帰宅した時、家は真っ暗で小さな声が聞こえていました。その声に耳を傾けると、それは継母がその子を心から心配し、神様に守って下さいと涙ながらに必死に訴える継母の祈りの声だったのです。
子供は継母が自分を責めず、口先だけではなく本当に思ってくれている姿を目の当たりにしたことで、継母の愛を受け取り、大きく変わりだしました。その時からその家庭は本当に素晴らしい家庭に生まれ変わっていったということです。
狼に育てられた少女が人の社会になかなか馴染めなかったことからわかるように、人間が本当の意味で人間となるためには、母親が何もできない手の掛かる赤ちゃんを可愛いがるような、「無条件の愛」が必要です。
自分はそういう愛をあまり受けて来なかったという人がおられるかもしれませんが大丈夫です。実は神様があなたを愛してくださっているからです!あなたが何かができるから尊いのではなく、あなたがいるだけで尊い、何もできなくても価値がある、という「無条件の愛」であなたを愛していると語ってくださっています。ただその愛は受け取らなければ入って来ないのです。

永遠の命

マザー・テレサは、愛の反対は「無関心」だと言いましたが、神様があなたを愛されたという意味は、神様はあなたに対して無関心ではいられないということです。次の聖句はルターが「聖書の中の小さな聖書」と呼んだほどの箇所ですが、ここにそれが表されています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネ3章16節)

私たちは生きていますが、この命は抜け殻のような命です。私たちは一生懸命何かをやっているのですが、何かむなしい、寂しい、悲しいという思いをいつも抱えています。あれをすれば充実する、これがあれば満足…本当にそうでしょうか?
神様はそんな私たちを放ってはおかれません。私たちが愛され、生かされている、生きる意味がある、とわかる豊かな命を与えるために、神様は、ご自分のひとり子イエス・キリストをこの世に(あなたのもとに)送ってくださいました。そうせざるを得ないほどに愛してくださっているのです。
「永遠の命」と聞いて「この命が永遠に?関心ないわ。」と思われるかもしれませんが、神様のくださる永遠の命は、ただ単に永遠なのではなく、本当の喜び、希望と感謝に生きる、生き生きとした、私たちが知っている命より、はるかに優れた命なのです。そういう命を与えるためにイエス様はこの世に来てくださったのです。

人(イエス様)がその友(あなた)のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15章13節)

どんな大きなプレゼントでも、命以上のものはありません。あなたのために命を捨ててくれる人がいるでしょうか…いるのです!イエス様はあなたの身代わりに十字架に掛けられ、命を捨ててくださいました。それほどあなたを愛してくださっているのです。ご自分の命をもって、神様に「わたしがこうして命をかけるのだから、赦して欲しい、犠牲を払ったのだからこの人を受けとめて欲しい」と贖ってくださいました。
過去にどんなことをやったとしても、取り返しのつかないことをやったとしても、イエス様が代わりに十字架で罰を受けてくださったために、もう二度と罪を問われないのです。この事を信じ受け取る時、あなたの心は確かに変わり始めるのです。

新しくなる

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5章17節)

ある少年がいました。父親が外に産ませた子で、母親が育てられず、家に連れ帰って、義理の母親が育ててくれていました。アル中になった父親からは暴力を振るわれ、悲惨な暮らしをしていました。あまりのひどさに彼は、時が来たら必ず父親を殺してやると心に決めて過していましたが、何とか社会人にまでなることができ、そこで聖書に出会ったのです。
その後参加した伝道集会で「イエス様を信じる人は?」と呼びかけられた時に、「私も生まれ変わりたい。本当に生まれ変われるなら…」と手をあげたそうです。彼の生い立ちを聞いた牧師は、「神様、どうぞこの人に、焼いた魚が泳ぎ出し、電信柱に花が咲くような人生が始まるようにして下さい。」と面白い祈りを捧げましたが、実に本当にそれほどに変えられ、喜びに満たされた人生に変わっていったというのです。
彼はやがて東京で一番大きな教会の牧師になり、彼のその父親も一族も次々に救われ(イエス様を信じるようになり)、あの悲惨だった家庭は、皆がいつでも集まってくる素敵な家庭に変わっていたのです。このキリストに表された愛を受け取る時、あり得ないことが起こり得るのです。

見よ。わたし(イエス・キリスト)は、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(ヨハネの黙示録3章20節)

この場面が描かれた絵があります。蔦のからまるドアには取っ手が無く、外からは開けられないようになっています。心とはそういうものです。外側からいくら叩いても叫んでも脅しても、びくともしません。心の戸は内側からしか開けられないのです。その戸の外でイエス様は待っていてくださっていますから、どうぞ、あなたの心をちょっと開いてみて下さい。「私は淋しいのです、むなしいのです、悲しいのです」と、あなたの思いや必要を訴えてみて下さい。
心の真ん中の王座にこの方をお迎えすると心棒が入ります。大安心がやってきます。私はイエス様を信じた時に、「あぁ、この生き方で本当に良いのだ!」という心からの確信を持って生きることができるようになったことが本当に嬉しかったことを覚えています。
何もできない赤ちゃんをお母さんが可愛くて仕方がないといつくしむように、神様はあなたを「無条件の愛」で愛しておられます。神様こそが本当の答えを与えることのできる方、新しい人生に変えることのできる方、永遠の命に生かすことのできる方です。「私にも神様のことがわかるようにして下さい」と、どうぞ是非祈ってみて下さい。

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