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不安からの解放

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あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたし(イエス・キリスト)を信じなさい。(ヨハネ14:1)

北朝鮮からのミサイルのニュースや、様々な自然災害、社会の変化のニュースを聞くとき、私たちの心は、多くの恐れや不安に取り囲まれてしまうのではないでしょうか。そんな時、私たちはどのようにして心の平安を保ち、安心を勝ち取ることができるのでしょうか。
聖書は、「心を騒がしてはなりません」と語ります。どうしてでしょうか。それは、神の内に、イエス・キリストの内に、どんな不安や恐れにも打ち勝つ秘訣があるからだというのです。

本当の平安

わたし(イエス・キリスト)は、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)

聖書は、はっきりと本当の意味での安心を手に入れることができると宣言しています。
私たちの周りには、心を騒がす事ばかりというほど、問題や困難が山積みしている状態ですのに、なぜ「平安を残します」などと言えるのでしょうか。それは、聖書は私たちが考える平安とは別次元の平安について語っているからなのです。すなわち、すべての物事がうまくいくようにというような、普通私たちが考える意味での平安ではなく、神様が与える不思議な平安のことであり、それは、物事がうまく行く、行かないというようなことを超えた平安なのです。
例えば、お金があれば多くの場合は安心することができるのではないかと思います。
しかし自分が死の病に向かっているとしたらどうでしょうか。これはもうお金ではどうにもなりません。また、どんなに能力や力があっても、死の恐れや不安を取り除くことはできないでしょう。しかし実に、この死の不安や、恐れさえも超えた平安というものがあると聖書は言うのです。

祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるように(伝道者7:2)

私たちは明るい事、楽しい事を好みます。しかし、聖書の伝道者の書というところには「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方が良い」と言っているのです。どうしてでしょうか? そこには私たちが目をそらしたくなるけれども、真剣に考えなければならないこと、『死』があるからだというのです。どんなにお金があっても能力があっても、社会的地位や名誉があっても決して逃れられないものが『死』なのです。
在原業平という方が、「ついに行く道とはかねて知りしかど、昨日今日とは、思わざりしを」と歌っています。私たちは嫌なものに目を伏せてしまい、見ない、考えないで生きていきたいと思ってしまうものですが、本当にそれでいのかと問いかけるからなのです。私たちはどうしても嫌なことは後回しにする習性があるかと思います。やがて私にもその日がくることが、何よりも明白なのですが、その備えは後回しにしてしまうのが私たちなのです。

心の平安を得るためには

心の平安を得るためにはではどのようにして平安を得るのでしょうか。それは、永遠の神、死んでも死なないいのちに出会うことです。「どんな事があって神様が守って下さるから大丈夫、神様はどんな事も、良い事に変えることができる」と信じることができるなら、私たちはどんな厳しい状況の中でも平安のうちに歩むことができるようになります。
小林富次郎さんは、石巻でマッチ工場を経営していましたが、ある時大変な嵐で北上川に置いていた材木が全部流され、高いお金でフランスから輸入した機械が全部水浸しになり、使い物にならなくなってしまいました。彼がとった行動は、北上川の橋の欄干に上り「もう終わり・・・」と思ったのです。しかしその時、彼は一つの聖書の言葉を思い出しました。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11)

彼は若い時に教会に行き洗礼も受けていました。その時に、牧師から贈られた御言葉でした。「もし『懲らしめ』であるとすれば、自分が受けた災害も神様は知っておられるはずだし、『懲らしめ』ならば、かえってその人が成長するためのはずだ」と。その後、彼は無一文になってしまった訳ですけども、もう一度やり直そうという気持ちが沸き上がってきて、東京に出てマッチの原材料の取引を紹介し、当時教会の牧師から歯磨き粉の作り方を教わり、それを作って商売をしたのです。これが今も続く大きな会社になることができたのでした。
大きな試練が彼を大きく育て、その苦しみの中を乗り越えて「イエス様がおられるから大丈夫だ」と、様々な試練を乗り越えることができるようになったのです。これが「人が与える平安と違います」ということです。神が備えて下さる平安というのは、様々な事があったとしても苦しみや困難があったとしても大丈夫ということなのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ8:28)

自分にとってもうやっていられないと思うような事をも、神様は働かせて益として下さることができるのです。その時には思えなくても、長い目で見ると確かに益となっている事柄が皆さんの人生にも、たくさんあったのではないでしょうか。どんな状況の中にあっても、神様が共にいて守って下さっていることを知るなら、不思議に不安や恐れが消えて行くのです。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
(イザヤ41:10)

私たちが持つ不安や恐れの究極は『死』ではないでしょうか。一人のハンセン氏病になった方がショックで死のうと思ったそうです。当時は、「自分がこの病になったことで家族一族が汚点と見られる。そしたら家族が・・・」と思いとどまったそうですが、彼女としては早く死にたいと思っていた。ところが、肺炎になってしまって、本当に死ぬのだと思った時「私はこれからどこに行こうとしているのだろうか。死んだらどうなるのか、考えてみたら何もわかっていない」と気づき、本当に不安になり、真剣に神を求めたそうです。

わたし(イエス・キリスト)は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。(ヨハネ11:25~26)

彼女はあちこち調べ回って、この言葉に出会い「そうか、イエス・キリストこそがいのちの源。この方と歩めば死んでも大丈夫なのだ」とわかった時に平安が与えられ、不思議に健康も回復したそうです。私たちは死んでも生きるのです。永遠のいのちを持つことができるのです。
イエス様は、あなたがたとえ死んでも、本当に天国で素晴らしい世界に行けるように備えて下さったのです(ヨハネ14:2)。それが私たちの罪の身代わりとして死んでくださった十字架です。このイエス様に繋がっているなら、不安や恐れではなくて、永遠の希望と喜びに繋がることができるのです。不安になったり恐れが出てきたときに、これらのことを思い起こして下さったら、きっと不思議な平安があなたの心にもきっと訪れることでしょう。

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