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永遠のいのち

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私たちの人生にはいろいろな辛い事、苦しい事、嫌な事があり、「どうやって生きていったら良いのか…」と思いあぐねてしまうことも多々あると思います。そんな私たちに聖書は言います。

永遠のいのちを受けるには

神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16~17)

以前の私はこの言葉を聞いても“永遠のいのち”なんて欲しくないと思ったものでした。自分の生きて来た人生の延長線上に永遠があると誤解したからです。神様が備えて下さるのは、それとは全く質も内容も違う素晴らしいものなのですが、それがわからなかったのです。ですから一生懸命にいろいろなことをやっても、心から満足できるものはなく、本当のところでは満たされず渇きを感じ、自分が何のために生きているのかわからないままに人生を歩んでいたのです。
そして、「むなしい、寂しい、孤独だ、いっそのことこの地上での命を閉じた方が良い」とさえ思ってしまうことがあるのだと思います。現在少しは減ってきているのですが、それでも15~40歳の死亡原因の1位は自死だそうです。交通事故による死亡者数は努力によって大分減ってきているのですが、経済的に豊かで生活基盤が整っているこの国で自死する方はなお多いのです。

わたし(イエス・キリスト)が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14)

神が備えて下さったのは、こんこんと湧き上がって来る「永遠のいのちへの水」です。私が初めてイエス様を信じた時に感じたことのひとつは「喜び」という感覚でした。楽しいという思いは一瞬で消えますが、それは沸々と湧き上がって来る喜びの感情なのです。「永遠のいのち」とは、本当に麗しい、愛、喜び、平安、寛容、親切、柔和に満ちあふれていくいのちであり、もしこれがあれば、試練や困難があっても打ち勝って乗り越えて行けるものであり、私たちが本当に必要としているものなのです。
ただし、このいのちを頂くには「御子を信じる者」という条件があることを知る必要があります。神様は徹底的に聖いお方であるため、汚れた者をそのまま受け入れることはできないのです。
もしそうであるなら罪や汚れ、弱さのある私たちには、このままでは神様のところには到底行くことはできないはずです。しかし、あわれみ深い神様は、私たちがどんなにひどい状態であろうとなお赦され、そのままの姿で神様のところに行ける道を用意して下さったのです。それがイエス・キリストの受けて下さった十字架の道なのです。十字架刑は古代ローマでも長くは使われなかったほど、あまりにも惨たらしい刑罰だったのですが、全く罪の無い、神の御子のイエス様が私たちの罪を全部引き受けて、その道を歩んで下さったのです。
ですから私たちは、この神の御子イエス・キリストに向かって、「私は神に受け入れて頂くことのできない罪と汚れ、弱さを持った者です。でもこんな私のためにイエス様が身代わりとなり、罪を赦して下さるということですから、私の罪をもお赦し下さい」と祈るだけで良いのです。
私たちに「愛する子よ!」と呼びかけて下さる神様は、あなたにこの福音を受け取って欲しいと「懇願している」(Ⅱコリント5:20)とまで記しているのです。ですから私たちは、「イエス様、こんな私のために十字架に掛かって下さってありがとうございます!」と、この愛の申し出を受け取れば良いのです

苦難のときにも

しかし、信じた後も相変わらず悪いことがやって来るという事実は、なかなか神の愛を信じ難くしている理由の一つだと思います。しかし信じた者が出会う苦しみや悲しみは、呪いや裁きではないのです。実際、苦しいことが降りかかって来た時には「どうしてこんなことが?」と嘆き苦しみますが、過ぎてみれば「あの苦しみこそが私を成長させて下さっているのかもしれない」と、気付くことがあるのではないでしょうか。神様は「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(へブル12:5~6)とも語っておられるのです。イエス様を信じる前と違うのは、どんな苦しみも困難の時も一人ではないということです。ですから信じる者には、どんな事でもわかってくれる方がいる、助けてくれる方がいる、だから乗り越えていける、ということなのです。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(Ⅰコリント10:13)

聖書は何千年も語り継がれ、多くの人が恵みを体験し証しして来ているものですが、有名な証し人の一人に世界的に有名な賛美歌「アメイジング・グレイス」の作詞者であるジョン・ニュートンがいます。彼は敬虔なクリスチャンの母を7歳の時に亡くし、苦難の後に最低と言われている奴隷船の船員となり、後には船長になって奴隷貿易に携わったのです。そんな彼がある日、大嵐に会い、沈没の危機が迫る時に、彼は母の声を思い出し、生まれて初めて心から神様に祈り、絶対に難破するという状況の中で奇跡的に助かったのでした。
その時から聖書を読み始め、神様がこんな酷い罪びとである自分を、そのまま愛し、赦して受け入れて下さっていることがわかったのです。その時から彼は勉強を始め、後に牧師となり熱心に神の愛を伝えていったのです。正に驚くばかりの恵みです。彼は晩年「私には二つのことがはっきりしている。一つは、私はとてつもない極悪人であったこと。もう一つは、神はその私をそのまま赦し愛する、とてつもない大きな愛の方であったということである。」と述べたというのです。

賛美歌 「アメイジング・グレイス」(1節)
Amazing grace how sweet the sound That saved a wretch like me!
I once was lost but now I am found Was blind, but now I see.
(対訳:驚くべき恵み なんと甘美な響きよ 私のように悲惨な者を救って下さった。
かつては迷ったが、今は見つけられ、かつては盲目であったが、今は見える。)

御言葉はあなたが「神を信じるようになって、滅びないで永遠の命を持ち」、「心の奥底から、生ける川の水が流れ出るように」なり、神様から豊かないのちが注がれて、新しい人生を生きることができるようになるようにと語っています。どうぞあなたも心を開いて神様に求め祈ってみては如何でしょうか。そして、この幸いな神様のいのちを味わって頂けたらと願っています。

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