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心の傷からの解放

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義人はいない、ひとりもいない

それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ3:10~18)

これは、聖書が人間について語っている箇所のひとつです。
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く」…ずいぶんひどい言い方だと思われるかもしれませんが、人から裏切られたり騙されたり酷い目にあったり、実は、多かれ少なかれ私たちはこういう経験を味わってきたのではないかと思います。
「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり」…まむしというのは人を殺すほどの毒を持っています。非常にきつい言葉であり、生きる力を失わせるほどの力がある言葉でもあります。
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている」…誰でも心に恨み、憎しみ、妬みが入ってくると、酷い事を言ったりしてしまいます。
「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない」…人類は始まって以来ずっと平和を求めてきたのに、実際には効率よく人を殺すための兵器を使ってきたのが現実です。これはいったいどうした事なのでしょうか。
実はこれらの事は「神に対する恐れがない」という事から起こってくるのです。「私は立派な人間じゃない、悪い事を沢山してきている」と自覚のある人は、でもこれが私たち人間なのですからと、そのままを認めざるを得ません。逆に、「私はそんな悪い事してないから大丈夫だ」と思う人は、こういう箇所を読むごとに「ああ、私にも悪い所があった」と気づく必要があるのではないかと思います。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。(ローマ5:6、8~11)

イエス・キリストは「何が神様だ、神様なんて関係ない」と言っている人、神様から縁遠いと思われている人、不敬虔な者のために死んで下さいました。何も良い事が出来ない、やりなさいという事はちっとも出来ないし、やってはいけない事をやってしまう、本当に情けない、力もない弱さがある人、何でこういう生き方しかできないんだと非難されるような者のために死んで下さったのです。これが神様の業なのです。神様は、あなたが立派になったら救ってあげようとか、良い人になったらその人に恵みを与えようとかいう事ではないのです。
イエス様は、「あなたにはそういう弱さがあるから、私がそのための身代わりになりましょう。あなたに足らないところがあるから、私がそれを補いましょう」と言って近づいて下さる方なのです。自分は立派ではないからダメだという事ではありません。「決してあなたから離れず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5)と言って下さるのです。
こんな私じゃ神様から恵みを受ける資格がないと思う人は安心して下さい。いや、私はそんな悪い人じゃありません、私は立派ですという方は注意深く読んで下さい。その時に、「でも十字架がある」と立ち返ってくる時に、皆さんの心の中に徐々に土台と言いましょうか、平安というものが皆さんの内側から湧き上がってくる事に気づくと思うのです。
本当にそんな神様はいるのかと、初めは正直半信半疑だと思いますが、この方を素直に心の中に受け止め、この方に心を開いて行く時に、「私たちは神を大いに喜んでいるのです」(ローマ5:11)とあるような喜びが出てくるようになると思います。これは皆さんが今まで味わったことのある、楽しいとか嬉しいというようなものとは違う喜びなのです。

わたし(イエス・キリスト)は、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
(ヨハネ14:27)

もし私たちが神様を信じているなら、時に神様はあえて問題や困難を置かれることがあります。そんな時私たちは苦しいですから、自然に祈るようになるのです。その祈りがいつしか皆さんの心に不思議な平安というものをもたらしてくれるのです。この世が与える平安は、全てが順調で、いい事ばかりが続くと平安になります。でも神様にある平安とは、たとい悪い事ばかりが続いていたとしても、なお心に喜びや平安があることを体験するようになるのです。状況を見るならもっと鬱々としなきゃならないはずなのに、普通でいられる自分を発見するのです。
祈りの中で神様に正直な気持ちを申し上げたり、聖書を読んだりしているうちに、いつの間にか心にあった不安や、鬱々とした気持ちに打ち勝つ力が出てくるです。落ち込みがないとは言いませんが、不思議なことに、いつの間にか深刻な落ち込みではなくなっていることに気がつくのです。「永遠の腕が下に」(申命記33:27)という聖書の言葉があるのですが、永遠の腕、神様の腕が皆さんの下に置かれているのです。皆さんの心が落ち込んで行く時に、そっと手を出して大丈夫だよと支えて下さるのです。もがけばもがくほど苦しいのですが、問題を神様にお任せする時、落ち込むはずなのにそれ以上落ちていかないばかりか、時折喜び、平安というものが皆さんの内側から湧き上がってくる事に気づくと思います。

心の傷のいやし

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
(詩篇139:23~24)

私たちは気づく、気づかざるとに関わらず様々な形で心に傷があります。例えば、寂しさや孤独感も、そういう事に関係している事が多いのです。自分が通って来た過去の悲しい経験と似たような経験があるとき、いたたまれない寂しさや悲しみが襲ってくるかも知れません。そんな時、素直に神様に祈る事をお勧めします。神様だけは分かって下さるからです。もし過去の悲しい出来事に対し、「本当に辛かった、悲しかった。」と言えたなら、これだけでいやしが起きる事も珍しくないのです。
なぜなら「彼(キリスト)の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53:5)からです。キリストの打ち傷、十字架というものは皆さんの心の傷をいやすのです。例えその傷がどんなに深いものでもいやす事が出来るのです。
アメリカから来た講師で、底抜けに明るい顔をした人がいました、その人の過去を聞いてびっくりしました。その人は小さい時、お父さんからレイプされ、その他にも様々な暴行を受け、これでは、まともな生活が出来ないだろうと思われるような過去であるのに、その人が底抜けに明るい顔をしているのです。こんなにまで解放されるものかと思いました。
神様はあなたの心の傷をもいやす事が出来るのです。問題はその気持ちを神様に持っていく否かです。「主に帰れ」(イザヤ55:7)、これが秘訣です。その時に皆さんの心の中に今まで味わったことのない平安と慰めが沸き上がって、ずっと引きずってきた寂しさや孤独感がいつの間にか消え去っていく事に気がつくのではないかと思います。

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