人生を左右する出会い
「人生は出会いで決まる」という言葉がありますが、私たちはどんな人と出会うかによって人生が変わります。それによって素晴らしい経験をする事もあれば、とても嫌な目にあうかも知れません。でも私たちの人生の中で最高の出会いというのはイエス・キリストとの出会いではないかと思います。
主(イエス・キリスト)はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。それで主は、・・・スカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。(ヨハネ4:3~6)
イエス・キリストの聖書の時代をおとぎ話のように感じていらっしゃる方もいるかと思いますが、これは現実の話です。今から二千年前イスラエルの死海という湖の近くのサマリヤという所に住んでいた女性のことです。イエス様はその場所にあったスカルという場所の井戸に座っていました。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。…そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」─ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである─(ヨハネ4:7~9)
「なかなかあの人とは上手くいかない。このタイプは苦手」と、いつの時代も不仲はあります。サマリヤ人とユダヤ人は、すぐ隣に住んでいましたが、仲が良くありませんでした。ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、またサマリヤ人もユダヤ人を毛嫌いしている所があり非常に難しい関係でした。
サマリヤ地方はとても暖かく亜熱帯と言ってもいい程で、昼間はとても暑いのです。朝起きてすぐ、涼しいうちに水を汲んで必要な水を用意する。これが女性の一番の仕事だったのです。
イエス様はお昼頃の暑い時、そこで休んでいたところにサマリヤの女性がやってきました。昼間の暑い時間に彼女が水汲みに来たのは、彼女に後ろめたい所があって誰にも会いたくなかったからでした。しかしその時イエス様は何も気にせず「私に水を飲ませて下さい」とお願いしたのです。彼女は「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤ人の私に求めるのですか?」と嫌みを込めて言ったと思います。
イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。…この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
(ヨハネ4:13~15)
全然関係ない話のようですが、このイエス様の話は、彼女の心を開くためのものだという事にお気づきでしょうか。彼女は「そういう水が欲しいのです」と。すると、イエスは彼女に言われました。
「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。」(ヨハネ4:16~19)
この女性は「何故この人は私の事を知っているのだろう」と不思議に思いました。5回結婚を繰り返し、今は同棲をしていた。誰にも言えない、誰も分かってくれない、彼女が心の中でいつも持っていた不安や寂しさや悲しさ、恐れ等の肝心な所にイエス様が触れ始めたのです。
誰にも触れて欲しくない所に、イエス様は切り込んできたばかりか、説明しなくていいように彼女の状況を全部言ってしまうのです。「この人は私の事を全部分かっていて私の傍に来ているのだ。ただの人ではなく、ただ水が欲しくて私に近づいてきた人ではない」と理解したのです。そして、今まで旅人と思っていたのが先生という言葉に変わり、彼女も心の底では求めていた神様を求め始めたのです。
心の傷のいやしと解放
自分の素性を明らかにされた時、彼女は怒るどころかほっとしているのです。今まで誰も分かってもらえなかった自分の気持ちがこの方には分かってもらえると思ったのではないでしょうか。今まで彼女がずっと抱えて来た心の闇、劣等感や痛みや悲しみ、彼女を縛っていたものから解放されていくのを彼女は感じました。
私たちもいろいろなものに縛られ、あるいは誰にも分かってもらえない痛みや悲しみ、寂しさ、虚しさを抱えているのではないでしょうか。イエス様は闇を引き出させてあげたのです。私たちが本当の意味でいやされたり解放されたりする時に必要なのは、この闇を光の中に出すことです。「どうして私はこういう事をしてしまうのか。こういう風になってしまうのか。」
その闇を抱えた状況からこの女は一瞬にして変えられていきました。
女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ4:25~29)
今まで自分の事を正直にいう事が出来なかった彼女が、町に行き「私の事を全部言った人がいるのです」と言ってしまうのです。それはイエス様との出会いからでした。井戸の傍らにいたイエス様に心を少し開いたからです。私たちに必要な事も、ある意味これなのです。あなたの傍にいて「あなたの心の重荷を話してごらん」と言って下さる方が傍らにおられることを知って下さったらと思います。
神様は私たちが、あるがままの正直な姿で神様の前に出て来て欲しいと願っているのです。あなたをそのまま受け止めて下さる方がいるのです。神様はあるがままの私たち、立派な私ではなく、弱さや苦しみを持って、悩みを持って弱々しい、そんな私たちをそのまま受け止めて下さる神様なのです。
イエス・キリストを見上げる時、不思議に私たちの心がいやされたり解放されたり自由になったりしていくのです。一気にいかなくてもこの女性がしたようにイエス様とお話して下さったらと思います。イエス様とのお話、これが祈りです、全部出す事はできなくても少しずつ「さびしいです」「悲しいです」と、これも立派なお祈りなのです。正直に祈るのが一番です。
私は父親が大嫌いでしたから「もし神様が本当にいるのならこの心を変えて下さい」と祈りました。心の中の氷が溶けていくような感覚がその時にありました。お祈りというのは神様とお話し、お願いする事です。いつでも聞いて下さる方がいるのです。「神様、本当にいるなら聞いて下さい」とお話するのです。余計な事は考えなくてよいのです。あなたの願い事ですから、わがままでも何でもそのまま神様に言うのです。人にでも心の苦しみを話すと心が軽くなる時があります。でも人に言うときには、少し不安が残ります。でも神様には大丈夫なのです。これを体験していくと段々と気持ちが楽になっていきます。
人を怖れていた人が大胆に話をする人に変わっていく。闇の部分が解放されていく。私たちはいろいろなものによって縛られています。人の評価、また誤解や噂は怖くはないでしょうか。でも自分の事を本当に分かってくれる方が共にいて下さると思うと、それだけで力が湧いてくるのではないでしょうか。本当に心配して分かって下さる方、それがイエス様です。
「わが友イエスは」という讃美歌があります。イエス様はあなたにそのように触れようとして下さっている。あなたも、もしかしたらこの女の人と同じようにもう一歩深くイエス様と交わりが深められて、新しい命の息吹が注がれていくかも知れません。ぜひもう一歩神様を求めて祈って欲しいと思っています。そして心で「今信じます。イエス様を心にお迎えします。私を造り変えて下さい」と祈って下さったらと願っています。