本当の幸せとは
皆さんは幸せというのはどのようなものだと考えておられますか。何があれば幸せだと思いますか。私が最初に副牧師として行かせて頂いた教会の前の農家の奥さんが「金さえなかったら」と言っていた言葉が印象に残っています。当時その場所は地価が上がり、高く売れていました。めったに入らないお金を目にすると人は変わってしまうのです。今まで貧しくてもそれなりにやっていた家族が、お金が入ったらバラバラになってしまい、滅茶苦茶になってしまいました。お金さえあれば、あれもこれもできる。けれども、お金を使う人がどういう心かによって、幸せにも不幸せにもなるのだと思います。
では何があれば幸せなのでしょう。素晴らしい友達ですか。何でも心を分かってくれる、心許せる友達がいることは本当に良いことですが、それで本当に幸せになれるのでしょうか。素晴らしいことだけれどまだ物足りない。地位や名誉、家とか財産、あるいは宝物や宝石があったら幸せかというとどうでしょう。必ずしもそうではないかも知れません。
私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。…私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。
(伝道者2:4~10)
これは、私たちが求めている幸せというものを全部手にしたソロモンという王様の言葉です。立派な家を建て、素敵な庭を造り、池もあってまことに幸せを絵に描いたような、それらすべてを手に入れました。おごり高ぶる人だったかというと彼は非常に知恵もあり、そのあまりの素晴らしさに、名声が諸外国に届くほどでした。やる事成す事成功し、非の打ちどころのない、まさにそういう人物がソロモンでした。しかし、彼はこう言うのです。
しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。(伝道者の書2:11)
ソロモンは、私たちが求めているのは全部持っていました。これ以上何を求めるというのでしょうか。幸せのために求めるものは、これ以上ないのではないでしょうか。こんなにすべてを持っているのに「なんとすべてが虚しいことよ」と言うのです。
日本でも、このような立場を得た人がいます。豊臣秀吉です。彼は何もなかったところから立身出世して登りつめ、天下を取りました。お城には金で造った茶室がありました。栄華を極めた、幸せを絵に描いたような彼が辞世の句として残したのは「露とおち 露と消えにし我が身かな 浪花の事も 夢のまた夢」あんなものは露のようにすぐ消えてしまうような虚しいものにすぎないと言ったのです。
幸せとは何でしょうか。「こうなったら、ああなったら幸せになるのでは」と思いますか。そういうものを得た人が「何と虚しいものよ」と叫んでいるのです。本当の幸せは、地位や名誉、事業や財産にあるのではないのです。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22~23)
御霊の実と書いてありますが、一つ一つの言葉をよく考えてみて下さい。「愛」いかがでしょう。これがあれば随分と幸せなのではないでしょうか。本当に愛する者がいて、自分が愛されていることを実感できるなら、幸せの基と言えるのではないでしょうか。
皆さんの中に「喜び」があったらいかがでしょうか。たとえ貧しくても心に喜びがあれば元気が出て、希望を持って立ち上がることができるのではないでしょうか。
「平安」どんな事があってもゆるがない平安というものが、もし皆さんの心に訪れたら、「これこそ私が本当に必要としていたものだ」ということに気づくのではないでしょうか。知って頂きたいのは、普通私たちが求めている幸せの中には、本当の幸せがないということです。
ところが、何の形もないものなのに「愛」があれば、「喜び」があれば、「平安」があればいかがでしょうか。結構本物の幸せに近いではないでしょうか。
アメリカのハーバード大学で二千万ドル(75億)という大きなお金で「幸せとは何か」と研究がなされました。人間の体を調べてどうなったら人間は幸せか。こうなったら幸せを感じるということを色々調べたのです。調べた結果、幸せはどこにあったかと思いますか。愛の中にあるというのです。「人間は愛の中に生きる時に本当に幸せだ」という結論を学問として発表しているのです。
本当の幸せを得るには
「御霊の実」とは一体何でしょうか。これは私たちのうちに与えようとして下さっている神の霊、聖なる霊です。それが御霊ということです。神様は私たちにそういう素晴らしいものを注ぎ込もうとして下さっている。そしてそこから来るものが愛であり、喜びであり、平安なのです。
では、私たちはどうやったらそれらを持つことができるのでしょうか。それは、この神様と共に歩むことです。この神様に助けを求めること、神様の所に来ることです。
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。…あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:9~13)
「神様、私にも愛を下さい。平安を下さい。喜びを下さい。何よりも神の御霊を与えて下さい」と求める者たちに、どうして神様が聖霊(御霊)を与えられないことがありましょうかと言っているのです。
私たちが本当の幸せを求めるために必要なこと、それは第一に、神様という方がおられるのだということに思いを巡らせて頂けたらと思います。第二に、聖霊という方は聖なる霊ですから、汚れている私たちには本来、来て頂くことができない方なのです。けれども私たちの汚れを取り除くためにイエス・キリストが十字架で身代わりに死なれました。それは、十字架によって私たちの汚れを全部取り除いて、神の霊という賜物を頂けるようにして下さったということです。
誰でも汚い心や醜い心、悪意や妬み、人を憎んだり、赦せない心など、神様が喜ばないものを持っています。しかし自分の内にもあるこれらの罪や汚れを正直に認めて「イエス・キリストが十字架で身代わりに死んで下さったこと感謝します」と受け取るなら、神様の恵みが皆さんの上に注がれて、聖霊(御霊)の実である愛、喜び、平安が心に訪れるようになるのです。この恵みを一人でも多くの人が味わって頂けたらと心から願っています。