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心の平安

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揺るがない平心

今回は恒例のお茶会です。茶の湯の心を表す言葉に「和敬静寂(わけいせいじゃく)」という言葉があります。「和」とは、互いに愛し合い平和を保つこと。「敬」は、お互いが敬い大切にして歩むこと。敬う心。「清」は、目に見えるだけの清らかさではなく、心の中も清らかであること。「寂」とは、何があっても動じない心。これは私たちがどんな時でも心がける、持つべき心ではないでしょうか。今日はこのような心を聖書から教えられていきたいと思います。

にわかに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな。(箴言3:25)

普通、急に何かとんでもない事が起こったら、恐れるのは当然ではないでしょうか。なぜ聖書は恐怖に怯えなくて良いなどというのでしょうか。実はここに大切な秘訣があるのです。

わたし(イエス・キリスト)は、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)

「世が与える平安」というのは、普段何もかもが順調にいっている時の平安です。このような平安はずっと続くでしょうか? 実際それは難しい事です。突然皆さんにとんでもない事が起きたら、たちまち心が震えてしまうのではないでしょうか。これが世の与える平安なのです。一方、「わたしの平安」とは、イエス・キリストが持っておられた平安で、何があっても動じない心です。イエス様はそのような平安を私たちにも与えて下さるというのです。

イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。…すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(マルコ4:35~41)

最初に「にわかに起こる恐怖におびえるな」とありましたが、まさしくこの例ではないでしょうか。ガリラヤ湖は、すり鉢状になっていて気候の変化が凄く、今まで晴天と思ったらいきなり嵐になることもよくあるそうです。台風のように波が立ち雨も激しくなり、船の中は揺れ、水がいっぱいになり、弟子たちが慌てて船が沈まないよう水をかきだします。ところがこの時、イエス様は船の先の方で寝ています。これがイエス様が持っておられた平安です。何があっても全然心配ない。安心してそこで眠っているというのです。それを見て弟子たちは少しイライラしてきたのでしょう。
イエス様を起こして「私たちをどうして放っておくのですか」と言うのです。ところがイエス様は「どうしてそんなに怖がるのです」と言われます。「イエス様、何を言っているのですか。これで怖がらない人がどこにいますか。沈みそうなのですよ!」これが弟子たちの気持ちだったと思いますが、「信仰がないのはどうしたことです。どうしてそんなに怖がるのです」これがイエス様が言われた言葉です。ここでいう信仰というのは、どんな意味で言っているのでしょうか。それはイエス様が神様であるなら、この波をたちまちにして沈めることができるはずだということです。そういう方が一緒におわれるのだという感覚が弟子たちになかったからなのです。イエス様が全てを守って下さるお方だとまでの気持ちがなかったので、大嵐で波が荒れたら怖くて仕方がなくなってしまったのです。
ではイエス様は何故、嵐の中で落ち着いていられたのでしょうか。それは父なる神様が守っておられるから波があり風があっても大丈夫だという固い強い確信・信仰があったからです。私たちが揺るがない心を持たせて頂くために必要なものも、この神に信頼する信仰というものなのです。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)

これは私が一番好きな御言葉の一つなのですが、この御言葉を真に受け取られたら、それだけで随分と心が強くなると思います。私は実際心が動揺した時にこの御言葉を読みました。そうすると心が一気に静まっていった経験があります。「神様が私と共にいてくれている。
だから、たじろぐな。」神様はどんな事でもできる全知全能の神です。何度かこの御言葉を繰り返していくうちに、いつの間にか心は平安に満たされていくのです。状況が何か変わった訳ではなく、この御言葉が心の中に入ってくる時、神様に対する信頼、信仰というものを持ち始める時に心の中から恐れが消えて行くのです。

神の愛

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(Ⅰヨハネ4:18)

神様が私たちを愛し、赦し、受け入れて下さっている。この事を私たちがしっかりと受け取っていく時に恐れが消え去っていくのです。これは和敬清寂の「和」に繋がる言葉ですが、この愛するという言葉の中には、許す、助ける、励ます、親切、思いやるなど意味までが含まれているのです。

わたし(イエス・キリスト)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:12~13)

その愛の中でもっとも大きな愛とは、人が友の為に命を捨てることだと聖書は言っています。実際命より大切なものはありません。大きなお金、犠牲よりもっと大切なもの、それが命ではないでしょうか。皆さんにも優しい親切なお友達がいると思いますが、でもいざという時あなたの為に命をかけてくれるでしょうか。イエス・キリストという方は、あなたの身代わりとなる為にあなたの罪を全部身に受けて死んで下さったのです。あなたの為に命をかけて下さったのです。
教会にある十字架は、あなたの命を救う為にイエス様が受けて下さった十字架を象徴しています。それはあなたを愛していますという印なのです。神様にとっても命をかけるのは大変なことです。自分の愛する独り子イエス様を人の為に犠牲に差し出すことは大変なことなのです。
生贄になり酷いことになるのを分かりつつもそこに我が子を送り出すということができるでしょうか。でも神様はそうして下さったのです。この神の愛を受け取った時に、あなたの内にも「和」、愛といったものが出て来るのです。
私があなたがたを愛したようにというのはこのことです。神様はあなたの為に命をかけて下さいました。それが愛なのだと気づいて、受け取って下さったならあなたの内からも愛がほとばしり始めるのです。
イエス様は十字架を拒否することもできました。十字架にかかる前にゲッセマネという所でイエス様は血の汗を流して祈られました。「父よ、この杯をとりのけたまえ。」これは十字架にかからなくて済むようにして下さいという意味なのです。十字架にかかるというのは、それ程大変な出来事だったのです。一人の罪を背負っただけでもその罰はどれだけ酷いでしょうか。
しかし全時代の人の罪が全てイエス様の上に置かれたのです。イエス様が死ぬことによって私たちが犯してきた罪が全部解決されたのです。ですから聖書は「恐れるな」と言えるのです。神様は聖い方であり、正しい方ですが、裁きを恐れる必要はないのです。なぜなら「あなたの罪は十字架で解決した。安心して私の所に来なさい」と言って下さっているからです。この神様が一緒だから大丈夫。この思いをもっと強く頂く事ができたら、私たちはもっと互いに尊い穏やかな心、清い心で、動じな

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