神を認める
人生が順調の時でも、心が満たされず、ふと虚しさを感じることはないでしょうか。多くの人は「神なんか関係ないよ」と自分らしい人生を追求し、また表面的にも明るく賑やかにしているようでも、実際には、心の中にどうしようもない寂しさを持っていることがあるのではないでしょうか。ある人は「それは、神様があなたに呼びかけている神の声ですよ」と言いました。「あなたがいるべき所はそこではありません。私(神様)のもとに帰ってきなさい!」と。
この語り掛けに耳を傾け立ち返ってくる時に、不思議に私たちの心は、味わったことのないような平安・希望・喜びを体感し始めることができます。でも「もし本当にそうだったら、もっと多くの人が神様を信じてクリスチャンになっているはずだ。」と考える人がいるかも知れません。実は、神様は私たちに呼びかけ続け、私たちの心を満たしたいと考え続けていて下さるのですが、それを妨げるものがあるのです。
見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
(イザヤ59:1~2)
聖書は、神様を神様と認めない事自体が根本的に罪なのだと語っています。確かに私たちに希望を与え、喜びを満たして下さる方を否定していたら満たされるはずはありません。これは親と子の関係に当てはめることができると思います。親が一生懸命子供に呼びかけても、子供がそっぽを向いていたならどうしようもありません。無理やりこっちに向けたとしても、またプイッと向こうを向きます。これでは本当の意味で親の愛がわかりません。
自分から「お父さん、お母さんは本当に私のことを思ってくれていたんだ」と、心の中の考え方を変えると「私は愛されて生きて来たんだ」とわかって来るのです。でも罪咎、反抗心があるために、私たちはなかなかそういう心になれないのです。でも多くの人は、「そんなこと言ったって」と、いろいろな理由をつけては神を認めようとしない、いや、認めることができないのだと思います。こういう人のことを聖書は愚か者と言っています。
愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。神は天から人の子らを見下ろされた。悟る者、神を求める者がいるかどうかと。彼らはことごとく背き去りだれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。(詩篇53:1~3)
神がいないという人の心には、いつのまにか、自分の知識や、経験、考え方が一番正しいと考える高慢が入ってしまっているのです。すなわち神ではない不完全な自分自身の判断や基準、考え方が心の神となってしまうのです。そこからは高慢な自己中心的なものの考え方や態度が自然に出てきます。ですから自分の考え方、やり方が一番正しいと思うので、他の人の意見や考え方を認め受け入れることが難しくなるのです。そうなると、あちこちでいさかいや戦い、混乱が起きてしまい、問題だらけになってしまいます。これが罪咎の源なのです。
神の守り
私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともない。主はあなたを守る方。主はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる。主はあなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。(詩篇121:1~8)
この御言葉は、以前この教会にいたRさんという方がイエス様を知った時のみことばです。奥様が劇症肝炎になり、普通の人ならGTPなどの値が20か30なのですが、調べたら一回目が測定不可。次の時には5000位でした。院長先生からRさんに「こういう状態の人が一週間生き延びたのを見たことがありません。」言われました。Rさんはあわてふためきます。ちょっとした病気だろうと思って入院したのですが、それが最後通告を受けたのです。
奥様は小さい頃に教会に行ったことがありました。病院で読もうと思ったのか、聖書をベッドの上に置いていたのです。奥様が検査でベッドにいない時、Rさんが絶望の中で開けたのがこの箇所だったそうです。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。」その時はクリスチャンではありませんでしたが、切羽詰まっていました。わからないままに神様に向かって彼はこんな祈りをしたそうです。「もし妻のことを救ってくれたら私は神を信じます。」と。本人は違う宗教をもっていたのですが、それが何にもならない。「もし本当に神がいるのなら」と祈ったのです。すると祈った次の日に、再検査で、数値は200に下がっていたそうです。とにかく、医療にも、どこにも頼るところがありませんし、聖書の天地を造られた神から救いが来るという言葉にすがり、半信半疑ながら、この神様に頼ってみよう、頼るしかないと、心から祈った時、完治したのです。
神様は私たちが認めようと認めまいと、本当にいらっしゃるのです。しかしもし私たちがそれを認めて、その方に頼ってみようと思わなければ、私たちはわからないままなのです。もしRさんが「神様がいるんだったら何でこんな酷い事があるんだ」と不満や文句だけであったなら何もわからなかったと思います。でも彼は必死に神様に祈ってみたのです。すると驚くべき事が起こったのです。
実はなぜそのような事が起きたのか、後日談がありました。奥様もいろいろな葛藤があり、悪い心が出てきていたのでしょう。それでベッドの上で一晩中、神様の前に「神様、赦して下さい。」と多くの事を悔い改め、そして神様の前に徹底的に涙を流して赦しを得たのだそうです。それが丁度ご主人がお祈りをした日と同じ日だった。イザヤ書に書いてあるように「主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」自分に罪があると彼女がそう言って真剣に告白した時に驚くような恵みの経験をされたのです。私たちに必要なことも同じです。
私たちが神様の恵みを体験できないのは、私たちがまだ神様の前に認め告白していない罪咎が原因であることが多いのです。神様はそれらを全部ご存じで、なお私たちをそこから救い出すために、御子イエス・キリストを、私たちの罪の身代わりとして十字架に掛け、罪の呪いから解放して下さったのです。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)
もし私たちが「確かに私には恨む心があります。神様を否定する心、憎む心がありました。裁いていました。」等、自分の罪を正直に認め告白するなら、神様は罪を赦してくださいます。そしてイエス・キリスト信じることによって神様の恵みや守りが私たちの内に現わされるようになるのです。
私の友人は神様を信じるかどうかという時に損得で考えたそうです。「神様が実際にはいないのに、いると信じている人は愚か者かもしれないが、損失はどの位かというと、あんまり悪い事はないだろう。反対に神様は実際にいるのに、その事を認めない、知らないでいたら神様の助けや守りを全部失う。これは大損だ。」それから聖書を読んだり求めたりして、彼は神を知るようになっていきました。
まず自分の罪過ちを正直に神様に祈ってみて下さい。そして自分のお願いを神様に祈る時に「神様は本当に私を助けてくれた、私を愛して下さっている」そんな体験をすることができるようになると思います。Rさんが祈ったことは本当に幸いでした。同じように私たちも困難や試練の中で、是非一歩踏み出して正直に神様に祈り、生ける神を体験してみて下さったらと思います。