私たちが真正面から見ることができないものが3つあると言われています。1つは「真昼の太陽」、2つ目は私たちが犯す「罪」、3つ目が「死」です。死は必ず誰にでもやって来るのですが、はたしてその備えはできているでしょうか。
聖書によれば、イエス・キリストにあっては、死は悲しいものでも寂しいものでもなく、怖いものでも恐ろしいものでもありません。私たちは何となく「死は怖いものだ」という印象があるのですが、もし私たちが正しい意味で「死」というものをとらえることができたなら、もっと平安を持ってその日を迎えることができるようになるのではないかと思います。
先日召された樹木希林さんは、今から13年前に網膜剥離で失明し、翌年に癌になり、8年前には全身の13か所が癌になりました。彼女はいつ死ぬかわからないということで、「死ぬ死ぬ詐欺です」などと言いながら、テレビに出たり、アカデミー賞とったりして元気にしていました。
残念ながら大腿骨骨折の大きなケガから急に容体が悪くなってしまったのですが、それでも突然欠席になる番組に「大腿骨骨折で、今細い糸一本でやっと繋がっている。声の一言も出ないの。しぶとい困った婆婆です」などと、イラスト付きで、ファックスを送って来るほどでした。
ある意味で彼女は13年の間、死ぬということに直面し、充分に考えたり備えたりすることができたのだと思います。「死」を考えるということから逃げていると、その備えを十分にできません。私たちもその日のための良き備えをしっかりして旅立たせて頂きたいものです。
すべてに時がある
すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。(伝道者3:1~8)
私たちは自分で生きていると思っていますが、果たしてそうでしょうか。私たちは自己中心という性質を持っているので、自分の側からしか物事を考えられないのですが、私たちは生きてきたというより、生かされてきたのです。そして最後はいつ召されるのかもわらないのです。
樹木希林さんが「もう召される、向こう側に行っていると思ったらまた戻ってきました。糸一本で繋がっていました」と言っていたとおり、自分で死ぬこともできません。ある人は命を絶とうとして線路に身を横たえたそうですが、電車は隣の線路を通って自分は死ぬこともできないと悟ったと言います。私たちは生かされており、まず生かされている限り生きていこうと考えることが非常に大切ではないかと思います。
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩篇90:10、12)
日本の平均寿命は女性は89歳を超え、男性でも81歳になってきています。世界でも最も寿命の長い国の一つになっていますが、大切なのは「自分の日を数えること」なのです。私たちは、死がやがて来ることをはっきり自覚して備えることが必要なのではないでしょうか。平安時代の在原業平という人が「つひにゆく 道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」と詠っています。
人はいつか死ぬと聞いてわかっていたけど、本当の意味では備えをしていなかったという告白です。そういう意味で私たちも在原業平と同じではないでしょうか。「私は準備ができています」とはっきり言える人がどれだけいるでしょうか。備えをしっかりさせて頂きたいものです。ではその備えとは何でしょうか。
永遠の命
キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(ヘブル9:26~28)
聖書には『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている』と書いてあります。ある人は、死んだら無になる、何もなくなると考えています。また、ある人は、死んだらその人が地上で行ってきた行いによって天国と地獄に分かれると考える人もいるでしょう。
一人のハンセン氏病になった方が、こんな事を話して下さいました。『病になったことがショックで死のうと思っていました。でも「自分が、この病気になったことで、家族が肩身の狭い思いをしているのに、もし自分が死んだらもっと悲しむ」と思い、とどまれた。
でも肺炎になってしまい、いよいよ死ぬのだと思った時「私はこれからどこに行こうとしているのか。死んだらどうなるのか。考えてみたら何もわかっていない」と気づき、必死になって死んだ後どうなるのか答えを求めました。いろいろ宗教を尋ねてみても、ご利益宗教と言いますか、この世で上手くいく教えは沢山ありますが、死んだ後にについてはっきり語っている教えはありませんでした。
そんな中で初めて聖書の言葉『わたし(イエス・キリスト)を信じる者は、死んでも生きるのです』(ヨハネ11:25)に触れ、死んでも生きる、永遠の命を頂く道があることを知り、求め、平安を頂くことができたのです。』と。
上記のみ言葉のように、聖書には『人は一度死ぬことと、死後に、裁きを受けることが定まっている』と明確に語っています。しかし同時に、だからこそキリストが、その救いのために来て下さったことも、はっきり宣言しているのです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
私たちは「死」に対して真剣に対峙しようとしない面がありますが、「罪」ということについても見ようとしません。しかしイエス・キリストはこの大問題に対峙して下さったのです。私たちを死後の裁きから解放するためでした。私たちが責任を取るべき罪の身代わりに十字架にかかって裁きを受けて下さったのです。それによって、私たちが永遠の命という素晴らしい命・天国の命を味わうことができるようにして下さったのです。
『キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には…』とあります。一度目は今から二千年前にこの世に来て下さいました。それがクリスマスです。そしてその後、十字架にかかって下さり、私たちの罪の身代わりとなって救いを用意して下さったのです。そして二度目には罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の本当の救い、身も心も救われるために現れて下さるのです。
イエス・キリスト信じて救いを受け入れた人は、今は、魂が救われた、心が救われたとか言いますが、再び来られる再臨の時には、私たちの体までが栄光の姿に変えられると書いてあるのです。栄光の体とは、もう決して疲れない、病気にもならない完全な体です。
また、もう人を憎むことも恨むこともなく、完全な愛に生きることができる体です。これこそが本当の救いなのです。それをイエス様を救い主と信じる者には無代価で与えて頂けると約束して下さっているのです。この命を受ける時、私たちは死の恐れから解放されて、喜んで新しい命・新しい世界に向かって歩むことができるようになるのです。