皆さんは北原照久さんをご存知でしょうか。「なんでも鑑定団」に出演しているおもちゃの鑑定士で、横浜ブリキ博物館の館長や(株)トーイズの代表取締もされている方です。彼は私立の学校に通っていたようで、成績がふるわず落ちこぼれクラスに入り「お前たち、他のクラスの足を引っ張るんじゃねえぞ」と言われた時、この言葉にとても傷つき、反発し、結果行く先々で喧嘩をしてしまったそうです。
そして義務教育なのに退学させられそうなほど、大変な状況だったようです。しかしそんな彼が大きく変わるきっかけとなった二人の人がいました。一人はお母さんで「お前はまだ若いのだから、立ち直るならいつだって遅くない」と言ってくれたそうです。もう一人は高校の先生であるテストで60点を取った時「お前もやるじゃないか。大したもんだ。」と心から褒めてくれた時であったそうです。
私達は人の言葉によって慰めや励まし、力を受けたりします。私達もそのような、人を励ます言葉を言える人になりたいと思います。ところが現実には、「これだけは言わないぞ」と心で決めているのに、気が付くとポロッと言ってしまったりするのです。人の言葉は、時に深く心を傷つけ、生きる力すら奪い取ってしまうことがあるのです。
今日はご一緒に、私達が人を励ましたり、慰めたりするような者になっていくためにはどうしたら良いのかということを共に考えたいと思います。
私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。…見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます。…舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。(ヤコブ3:2~8)
「舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。」と聖書は語るのです。人の言葉でグサッと心が刺されるような痛みを経験したことがある人は少なくないと思います。わざとそのような言葉を口にすることもあるでしょう。それは心がイラついている時です。自分の心が悪い時に普通なら絶対言わないであろうと思う事柄を平気で言ってしまい、結果として私達は多くの傷を与えてしまうのです。
聖書は「小さな舌が、小さな火が森全体を焼いてしまう。」というのです。ちょっと言ったことが取り返しのつかないような結果を生み出すことがあるかもしれないのです。時には死にさえ至らしめる程の力が私達の口にはあるということに気づく事が大切だと思います。なぜなら気づくなら、それについて何とかしようという気持ちが出てくるからです。
主よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守ってください。私の心を悪に向けさせず不法を行う者たちとともに悪い行いに携わらないようにしてください。私が彼らのごちそうを食べないようにしてください。(詩篇141:3~4)
「私の唇の戸を守ってください。」これは祈りであり、自分で自分を守れないということを告白している言葉です。守ろうとしてもできないから守って下さいと全能なる神にお願いしているのです。これはとても良い事です。また「彼らのごちそうを食べないようにしてください。」とあります。人の噂話や悪口は自分に関わりがない限り、楽しいのです。聖書はごちそうとさえ言っているのです。
まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。(マタイ12:34~37)
まむしの子孫達、これは私達のことを指しています。心に満ちていることを口が話すというのです。「悪い言葉を言ってはならない」と思っていても言ってしまう時はどういう時か思い出して下さい。その時の心は相手に対する苦々しい思いや裁き、恨み、嫉妬やそねみ、そういったものに満ちている時ではないでしょうか。心に満ちているので抑えが効かなくなり、とても傷つく言葉を言ってしまうことがあるということなのです。
普段自分がどんな思いを心に満たしているのかに気づくことが大切です。私達がもし人に優しい言葉を語りたい、人々に慰めを与えるような言葉を言えるような者になりたいと願うのであれば、そのような優しい心、愛の心をいつも心に抱かせて頂く必要があるということなのです。
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。(ヤコブ3:14~16)
私達の心の中に苦々しい妬みや利己的な思いが出てきたり、ひがみとか羨ましく思う心、人を裁きたくなるような心が出てきたら、どんなに自分が正しいと思っていても、まず自分の悪い心を取り除くことが大切です。でもそういう時、自分の悪い心を取り除こうと思ってもできない。これが私たちの本音ではないでしょうか。「あの人が悪いから」「あの人が改めなかったら憎み続けてやるんだ」というような気持ちが強くなって、自分が改めるということなど考えられないと感じるのです。
心に苦々しい思いが強くなると、似た人を見るだけで、嫌になってしまうこともあるのです。
結果として全然関係ない人の事をも恨んだり憎んだりし始め、人間関係がグチャグチャになってしまうのです。
北原照久さんもそうでした。学校で「お前たち、他のクラスの足を引っ張るんじゃねえぞ!」と言われたことで無性に腹が立ち、その先生に対する恨みだけではなく、学校に対する恨み、友達に対する恨み、いろんな人に対する恨みがいつも心を支配して、行く所どこででも喧嘩ばかりをするようになってしまったのです。
私達も悪い心というものをそのまま放置していますと、大変危険な悪魔的な状況になってしまうかも知れません。もし心が苛立っていたり苦々しい思いがあるなら、まずこのような心の処理が大切であることを忘れないようにしたいと思います。「自分の中にこの醜い心があります。そしてこんな私の為にイエス様が十字架にかかって下さった事を感謝します」と主を見上げたいと思います。
しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。(ヤコブ3:17~18)
「上からの知恵」とは何を意味するでしょうか? これは神様の知恵です。私達が良い心になる秘訣、それは、上から神様からの知恵を頂くということなのです。頭で一生懸命考えても、苦々しい気持ちや、利己的な知恵しか出てこないのです。必要なのは、上からの知恵、神様の力ですから「神様」と言って祈られることをお勧めしたいのです。
「この私のためにイエス様が十字架にかかって、私の罪の問題を処理して下さった。」と信じることです。神様からの愛と恵みを受け取ると、私達も優しい心になれるのです。本当にあなたの汚い罪、汚い心、呪いといったものは全部イエス・キリストが身代わりに受けて下さったのです。
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
私達がイエス・キリストを救い主として信じ受け入れる時、私達もこの神様の恵み、上からの知恵を頂くことができるのです。「十字架のゆえに私にも神様の力を下さい、愛を下さい、優しさを下さい、良い心を下さい」と祈ってみましょう! 少しずつですが、人を赦す力、相手の受け留める力が与えられ、変わっていくのを実感することができるでしょう。それはいつしか穏やかな人間関係や穏やかな生活、喜びの心、平安の心を私たちの内に生み出し、もっと豊かに生きる力が与えられ始めるのです。そのような神の恵みをあなたも味わう一人となって頂きたいと願っています。