世の中には、色々な魅力的な人がいます。綺麗な人がいます。強い人、優秀な人、カッコイイ人がいます。お金持ちの人がいます。優しい人、器用な人、働き者がいます。お洒落な人がいます。数えるときりがありませんが、素敵だな、と思う人というのはいるものです。では、そんな魅力的な人がいる中で、自分はどんな人になりたいかな、というと、考えてしまいます。
綺麗な人?それもいい。強い人?それもいい。優秀な人?それもいい。
憧れは色々ありますが、何が無かったとしても、愛のある人になりたいな、と思うのです。どうしたら、そんな愛の人になれるのでしょうか。
ゲーリー・チャップマンという人が書いた、『愛を伝える五つの方法』という本があります。この本でチャップマンさんは、私たち一人ひとりには、「ラブ・タンク」というものがあると説明しています。「ラブ・タンク」とは、自分が愛されている愛を入れる容器のようなものです。
このタンクがいっぱいにならないと、私たちは人を愛することができない、と言うのです。このタンクが枯渇してしまうと、私たちはたちまち人を愛する余裕を失って、むしろ、自分をもっと愛してくれるように、周りの人に求めるようになってしまうと言うのです。
では、どうやって、そのタンクをいっぱいにすればいいか。彼は、それには5つの方法があると、著書の中で教えています。
一つは、「肯定的(ポジティブ)な言葉」です。「今日も素敵だね」「愛しているよ」「よくがんばったわね」そんな言葉、自分に言われたのでなくても、聞いただけで何だか心が温まります。
二つ目は、「一緒に過ごす時間」です。いつまでもテレビの前に根っこをはやした大木のようになっていないで、1日30分でいいから、顔と顔を合わせて話したい!という声はよく聞きます。
三つ目は、「プレゼント」。高価なプレゼントじゃなくてもいい。「いつもありがとう」「今日はおめでとう」と、それがたとえ道端に咲いた花でもいい。きみのためにと言われたら、嬉しいじゃないですか。
四つ目は、「サービス」です。ちょっと手伝ってあげる。食器を洗ってあげる。肩を叩いてあげる。美味しいご飯を作ってあげる。自分のためにしてくれたら、嬉しいものですね。
そして五つ目は、「ボディ・タッチ」です。腕を組んだり、手をつないだりする。ちょっとした時に、ふわっと肩を抱いてあげる。それだけで愛されていることを感じることもあります。
皆さんの「ラブ・タンク」を満たすのには、どの方法だと効果的でしょうか。
そして、例えばご主人や、お子さんなど、身近にいて愛すべき方の「ラブ・タンク」はどうでしょうか。相手の「ラブ・タンク」が満ちれば、こちらは相手に愛されるし、相手に愛されれば、こちらの「ラブ・タンク」も一杯になって、相手のことも愛することができるわけですから、愛の良い循環が生まれます。
要は、私たちは、自分が愛されて初めて、人を愛することができるものです。すっからかんのタンクからは、振ってもたたいても、どうやっても何も出てこないのです。では、私たちは、誰に愛されればいいのでしょうか。
私たちを愛してくれるべきだったのは『親』です。皆さんの中には、「私は愛されて育った」と思う人もいれば、親に対して「どうしても許せない」という思いを抱いて生きてきた人もいるでしょう。
「親とは本当に愚かだ」と、私の母が私にこぼしたことがありました。私は心から、そうだなぁと思いました。親とは悲しい。親とは愚かです。まっすぐに子を愛せたらどんなに良いか。子どもを大事に思い、愛おしく思っているその思いに嘘は無いのに、良かれと思って自分の価値観を子どもに押し付けて支配したり、自分の人生に打ちひしがれている間に子どもを愛する力を失ったりします。一生懸命、必死でもがいて生きて、それでも、完璧な親はいないものです。
私たちが愛されるべきだったのは、『友人』です。皆さんには、親友と呼べる友人は何人いますか? 中には何人もいらっしゃる方もあるかもしれませんし、片手で足りるという方もいるでしょう。友人関係にも、私たちは少なからず、単に楽しく嬉しいばかりでない、様々な経験をするのではないでしょうか。友達だったらこうでしょ、と思うのに、結局、私たちが苦しい時に最後まで傍らで応援し、支えてくれるような人は、そういるものではないなぁと感じるような経験をするものです。
私たちが愛されるべきだったのは、『伴侶』です。病める時も健やかなる時もと誓ったはずなのに、いつしか恥じらいも思いやりも忘れて、人前で平気で伴侶をこけおろしてすっきりするようになってしまって、今となっては手をつないでデートなんて夢のまた夢、ということもあります。
結婚する前は、どうやったら相手に喜ばれるかしら、と、喜んで自分のあり方を変えよう、変えようと思います。結婚してからは、どうやったら相手は私を喜ばせてくれるのかしらと、相手を変えよう、変えようと思ってしまいがちだと聞きます。本当は、私をすっぽり包んで愛して守って欲しかったのに、相方の現実は、弱く、意気地が無くて、そのくせ強がりの、「子どもよりも厄介な、大きな子どもだわ!」というつぶやきも聞こえてきます。
私たちは、親に、友人に、伴侶に、愛されるべきでした。
愛されて、私たちの「ラブ・タンク」がいっぱいになりさえすれば、私たちだって、難なく人を愛することができたでしょう。でも、それは無理なのです。なぜ。それは、私たちが自分の現実に目をやれば明らかです。私たちが愛するべき立場として、親として、友人として、伴侶として、子どもを、友を、主人を、愛してきたでしょうか。愛したかった。努力はしました。でも、愛しきることのできない、限界だって、あります。私たちの親や、友人や、伴侶が、私たちを愛することができなかったのも、同じことです。しかし、私たちを、完全に愛しきってくださった方がいるのです。
その方は、私たちの親なる方です。私たちを造り、私たちを育て、私たちを導いてきてくださった方です。私たちがその方に背き、親を親とも思わないで無視したり、あるいはむしろ、親の愛を仇で返すかのごとく「あんなの親じゃない!」なんて言って反抗したりしたときも、限りない愛を持って、私たちを愛し通されました。
女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。(イザヤ49:15~16)
また、その方は、私たちの友となってくださった方です。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:13-15)
私たちが孤独に打ちひしがれ、信頼ってなんだろう、友情ってなんだろうって、頭をもたげ悩むときに、私たちを忘れず、傍らにいてくださったのです。
そして私たちのために、いのちを捨てた、そういう友人なのです。そして、私たちは、その方の花嫁と呼ばれています。その方は、私たちの伴侶となられるのです。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14:2~3)
私たちと共に、永遠に住む都を、天に整えておいてくださり、私たちが求めている本当の愛を、私たちに惜しみなくくださるのです。
このように、私たちの親であられ、私たちの友となってくださった、そして、私たちの花婿となってくださって、私たちに、「愛しているよ」と、地上では経験しえない、永遠の愛をもって迫っておられる方がいるのです。その方は、どなたでしょう。その方は、私たちの神であり、主であるイエス・キリストです。
もし、この方に愛されていることを受け止めるなら、私たちの「ラブ・タンク」は、永遠に尽きることがありません。初めて教会に来ると、教会の人がみんなニコニコしていてびっくりするという人が、時々いらっしゃいますけど、仕方ないんです。タンクがあふれちゃっていますから。
私たちは地上で、親に、友人に、伴侶に愛されて、それで自分の「ラブ・タンク」を満たそうとしていました。そうできたらどんなによかったか。でも、人には、できません。人は、私の「ラブ・タンク」を満タンにすることはできませんでした。でも、この方はそれができます。そしてこの方は、みなさんがその愛を受けとられるのを、今も、待っておられます。