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良い人間関係を築く秘訣

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今日は、人間関係が愛のあるものとなっていくための秘訣を聖書から学ばせて頂きたいと思います。

人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。(マタイ7:21)

これは聖書のゴールデンルール(黄金律)と言われている言葉です。「律法と預言者」というのは聖書のことです。私たちは自分の心の願いの実現することを強く願っています。ですからそれが実現する時、本当に嬉しくなります。この実現の助けをすること、これが人間関係の秘訣と言えると思います。

何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。(ピリピ2:3~4)

けれども、私たちは他の人のことを考えないで自分のことばかり考えていることが多いのではないでしょうか。人間関係の本当の問題はここから出てくるのです。私たちは生まれながらに自分勝手なのです。躾けられてそれなりに思いやりのある、優しい雰囲気を醸し出すことはできるかも知れません。それでもパニックになるととんでもない事をしてしまうことがあるのです。我が子を虐待して逮捕されるニュースをよく聞きます。「私はそんなことはしない」と思っている方が多いと思うのですが、私たち自身もそのような危険があることを知っていることが大切なのです。
気づかないうちに自分の中の醜い心、棘がチクチク出てきて、周りの人はその棘を感じ取って遠ざかって行ったり、難しい関係になってしまったりしているかもしれないのです。

人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。(エレミヤ17:9)

聖書は「人の心は何よりもねじ曲がっている」と言います。しかし自分では気づかないのです。他人がやっている悪い事はすぐわかるのですが、自分のやっている事には疎いのです。これが私たち人間の姿です。たとえば先ほどの御言葉「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」の通りに、本当に自分にしてもらいたいことを人にしてあげられると思いますか? 1日何回かはできるかも知れませんが、毎日ずっととなると如何でしょうか。根本的に私たちはそういうことができないのです。
あるいは「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」とありますが、なかなか自己中心の心から抜け出すことができないのではないでしょうか。また「自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい」と言われても、難しいのではないでしょうか。「私は忙しい、疲れているのだ」など様々な理由を挙げて「良いとわかっているけどできない」と感じているのです。ここに私たちの根本的な問題があるのです。ですから聖書は私たちに、そこからの救いの道を備えてくださっているのです。

主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:6~7)

たとえ私たちがどんなに弱く愚かな者であったとしても、「本当に私が間違っていました。助けてください。」と祈り救いを神に求めるなら、神様は赦してくださり、救い出してくださるのです。

互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。
(コロサイ3:13~14)

私たちは互いに忍耐し合ったり、赦し合ったりできないなら、私たちの人間関係はうまくいかないでしょう。完璧な人はどこにもいません。ですから誰でも責める対象になります。もし私たちが良い関係を築いていこうとするなら赦し合うこと、相手の弱さを認めて受け止めてあげることが必要なのです。私たちは自分で解決できない欠点を責められ続けたら、怒りを爆発させるか、生きることができなくなってしまうでしょう。反対に、どうしようもない弱さを持っている自分が赦され、「ありのままでいいよ」と受け止められてもらえるなら、気持ちが楽になります。私たちが人を赦すことができるためには「主があなたがたを赦してくださったように」まず赦される体験をすることが大事なのです。
たとえば自分が馬鹿な事をやってしまったと自覚していることを他人が同じようにやった時は「仕方ないよね」と、案外簡単に赦せるのではないでしょうか。自分が赦されているのを知っていると、他人の事も赦せるのです。親から赦され受け入れられた人は、他人との人間関係でも、赦したり受け入れたりすることが比較的容易にできるのですが、赦されたことのない人、受け入れられた経験のない人は、なかなか人を赦したり受け入れたりすることは難しいのではないかと思います。
ですから自分が赦されていること、受け入れられていることを知ることが重要な鍵なのです。そしてそれが良い人間関係を築き上げる土台なのです。主が赦してくださっていることを是非受け取って頂きたいと思います。
「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です」この愛というのは無限の神の愛、無条件の愛のことです。愛とは何か良い事をするだけではないのです。何も良い事ができなくても、その人を一方的に愛する愛なのです。これに一番近いのは「親の愛」で、お母さんの愛は、時にはこれに近いかも知れません。しかし人間の多くの愛は本物の愛ではなく、損得を考え、汚い心が出て来る場合が多いのですが、神様の愛は条件や損得を考えない愛です。そのような愛を受け取るときに、私たちもそのような愛を少しずつ持つことができるようになるのです。

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。(ローマ5:8~11)

自分が最悪の状況であっても、滅茶苦茶な言葉や態度を見せても、あなたのことを本当にそのまま赦してくれる人、「それでも私は愛しているよ」と言ってくれる人がいますか? そのような愛を神様は私たちに持っているのです。神様は私たちを愛しているので、ご自分のひとり子イエス・キリストに私たちのすべての罪の身代わりとさせ、その身に負わせたのです。それがあの十字架です。私たちがそのような無条件の愛と赦しを受け取る時に、私たちもまた人を赦し、人を受け入れることができる者、人を愛する者に少しずつ変えられるのです。良い人間関係のコツは、この十字架の愛を受け取ることです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(Ⅰヨハネ4:18~19)

「私たちは愛しています」とヨハネは言いました。「神様が私を赦してくださった。私を受け入れてくださった。私を愛してくださった」この事をまずしっかりと心の奥底で受け止める時に、自分の中にも愛するという力が出てくるのです。「愛には恐れがありません」この意味は、神の愛を受け取ると、「神様はどんな罪でも赦してくれている」ということを受け取ることができます。反対に受け取れないのは、その愛が全きものであることを信じていないからです。「神様は本当に私を赦してくださった」と受け取って行く時、私たちの内に人を赦し、愛する力が徐々に出てくるようになるのです。これが私たちに神様がくださった良き道であり、人間関係の極意と言えます。まず私たちが赦されて、私たちも人を赦し受け入れていく者、願っていることを少しずつさせて頂く者にされていけたらと思います

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