春になると、あちらこちらで色とりどりの花が咲き始め、新しい命の息吹を感じます。今日は、その命を象徴しているイースター(復活祭)についてお話ししたいと思います。
「イースター」という言葉をご存じでしょうか。イースターの日がどのように定められているかといいますと、春分の日が過ぎて一番初めの満月の次の日曜日とされ、実際にイエス様が十字架にかかられ甦った日に近く、丁度今頃の季節なのです。日本での知名度はまだ低いですが、イースターは実は、クリスマス以上に大切な日なのです。
クリスマスの意味を簡単に申しますと、私たち人類のために救い主がお生まれになった日という意味です。救い主がお生まれになることは、聖書の中に何百年も、何千年も前から書かれ預言されていたのですが、その事が実際に起こったのがクリスマスなのです。ではその救いはどのように成し遂げられるのでしょうか? その実態は何なのでしょうか? 実はそれが十字架と復活であらわされるイースターなのです。
キリストの復活
十字架のアクセサリーをよく見かけますが、実は十字架は死刑の象徴であり、忌み嫌うべきものなのです。しかし、十字架が愛・優しさ・博愛という良いものとして関連づけられているのは、イエス・キリストというお方が十字架にかけられたという歴史的事実に由来しています。苦しみながら徐々に死んでいくという、あまりにも酷い刑をイエス・キリストが受けられたのです。これは歴史的事実ですので疑うことはできません。
この十字架の出来事以来、生まれ変わりを経験する人が次々と起こされていきました。それがまずイエス様の弟子たちだったのです。彼らはイエス様と共にいた時には「死んでも従います」と勇ましかったのですが、イエス様が捕らえられた途端、逃げてしまったのです。
第一の弟子であるペテロは「あなたもイエスの仲間ではないのか?」と問われた時、自分も捕らえられてしまうのではないかと恐れて「私はイエスなんて知らない」と三度も言ってしまったのです。情けなく弱い弟子たちでしたが、イエス様が復活され40日間弟子たちに現れた後、彼らはガラッと変わったのです。甦ったイエス様に出会った事実と救いを述べ伝え始め、弱かった弟子たちが殉教するまでに変わったのです。弟子たちが殉教してもなおそれを覆さない頑強な信仰者になっていった理由は何でしょうか? それは復活されたイエス様に出会った事以外考えられないのです。
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。(マタイ16:21)
イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」(マタイ26:1~2)
このようにイエス様は前もってご自分が十字架につけられると語っておられました。しかし誰も信じなかったのです。復活のイエス様に出会った女性が弟子たちに「イエス様に会った」と言っても彼らは信じることができませんでした。しかし復活のイエスが40日間、何度も何度も甦った姿を彼らに現して下さることを通して、復活が事実であることが分かったのです。この事は単なる良い話ではなく、私たちの人生にも深く関わるということを知って頂きたいのです。
聖書(Ⅰコリント15章12~24節)には、復活が事実であり、いかに重要であるかが書かれています。「まずイエス様が初穂として甦り、その後にあなたも甦りの命を受け取ることができるのです。あなたの罪が全部十字架で解決されたので、あなたは罪無しとして認められ、神の子で永遠の命を持つ者として生きるのです」と言っています。もしイエス様が甦られなかったら私たちに罪の赦しも永遠の命の恵みもないのです。「復活したという事実を受け取る事から信仰生活は始まっているのです」と教えて下さっています。
永遠の命
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、(ローマ3:23)
神様は私たちに死んでも死なない命を与えたいと願っておられるのですが、罪があると、神様からの素晴らしい栄誉と命を頂くことができないことを教えています。聖書は全ての人は罪を犯したので、聖い人は誰もいないと言うのです。聖人と言われる人は沢山いますが、一度も罪を犯したことのない人はいるでしょうか? もし一度でも罪を犯したなら神の祝福を受けるに値しないのです。
それ程に高い世界が神の世界なのです。一方私たちは、考え、願い、思い全てにおいて自己中心ではないでしょうか? 高慢や妬み、嫉妬、恨みといったような汚い心が多々出てくるのです。そういう人間がそのまま天国へ行くことができるでしょうか? だからイエス様が罪を負うために、この世に来て下さったのです。私たちの力ではどうすることもできない問題ですのでイエス様が来て、私たちの全ての罪を身代わりとして受けて十字架にかかって下さったのです。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました。
(ヘブル9:27~28)
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)
多くの人は死を恐れています。本来死は罪の報いであり、罪の裁きの一つの形態なのです。罪がなければ死はなかったと聖書は言っています。では死なれたイエス様には罪があったのでしょうか? 実はイエス様には罪がなかったから甦ったのです。ではなぜ死んだのですか? それは私たちの罪の身代わりになられたからです。しかしその死を打ち破って甦られ、「もうその罪が解決されたのだから安心しなさい」と語っているのです。
聖書には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。私たちはいつか裁きがあるのではないかと恐れているところはないでしょうか。私たちにはいろいろな罪がありますが、そのためにイエス様が来て身代わりとなって裁きを受けて、私たちに永遠の命、死んでも死なない命を与えて下さったのです。ですから死は絶望ではありません。肉体の死は全ての人が経験しますが、罪を赦された人は裁かれることなく永遠に生きるのです。
あるハンセン氏病になった方は、病状が進み、目も見えなくなり死ぬ事を願っていましたが、家族の事を考えるとそれもできずにいた時、肺炎になり死が目前に迫りました。その時自分の死後について全く答えを持っていないことが怖くなり、教会の戸を叩いたのです。そして「私(イエス・キリスト)を信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)という聖書の言葉に安心を得て元気を取り戻すことができたのでした。
全く知らない死後の世界に行くのは怖いはずですね。でも神様は私たちを救う為にイエス様を送り、「罪の身代わりは既になされたのですから、イエス様を信じて安心して私の元に来なさい」というのです。復活を信じるなら死が怖くなくなり神様から新しく生きる力が与えられるのです。たとえ今困難の中にあってもイエス様がおられるから大丈夫と思えるのです。
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:31~32)
もしあなたがこのイエス様の救い・赦し・清めを受けとったなら、神はあなたの味方です。御子イエス・キリストを惜しまず与えて下さった神様は、全ての良いもの、恵みを与えて下さるのです。どんな状況の中でも雄々しく恐れを克服して生きる秘訣、それは復活を信じる信仰にあるのです。皆様にとってイースターが素晴らしい祝福となりますようお祈り致します。