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新しい自分に変えられるために

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罪は内側から出てくる

 私たちは、人が成功すると、表面では「よかった、素晴らしい」と言いながら、どこか心の底で、けなしたり、ねたんだり、時にはかえって足を引っ張ろうとする思いが出てくることがあります。聖書ではこういうものを「罪」といいます。そして罪は、内側から出て来るのだとも言っています。

内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。(マルコ7:21~23)

 聖書の箴言に「錆が鉄を腐らせるがごとく、ねたみは人を腐らす。」「人をねたむ者は、他人の徳を見て罪を犯す。」「人に嫉妬があるのは、鉄に錆があるのと同じだ。」とあります。私たちの内側から、ねたみや嫉妬、恨みなどが出て来て、人間関係に混乱をもたらす。これが問題なのです。罪が私たちを混乱させ苦しめているのですから、その事をしっかりと見て対処の仕方を学びましょう。
あるとき医者に、熱が出ている時は体が病気と戦っているのですから、熱を下げない方が良いと言われたことがありました。原因を知って、正しい対処をすると病気は良くなっていきます。私たちは、どうしてあの人と合わないのだろう、うまく出来ないのだろうと感じることがありますが、ねたみや嫉妬、あるいは他の悪い考えや裁く心、恨む心、憎む心が混ざり、そういう状況をもたらしているのだとすれば、そのことを正しく理解し、相応しい対処をして、そこから解放されれば良いと気づくのではないでしょうか。

敵意を葬り去る力

実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。(エペソ2:14~16)

 聖書は「2000年前のイエス・キリストの十字架には、私たちの様々な敵意というものを葬り去る力がある」と語っていることを知って頂たいと思います。十字架にかけられるただ中で、イエス・キリストが語られたのは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)という言葉でした。私たちは人から誤解されたり、バカにされる経験をすることがあるかもしれません。そのとき、憤りや怒り、憎しみを持ってしまうのが普通ではないかと思います。
ところがこの時、キリストはそうではなくて、まさしく平安な心で自分を十字架につけた人々を見ることができたのです。この言葉を聞いたイエス様と共に十字架につけられた強盗のうちのひとりは、「この方はただの人ではない。」と思い始めました。彼はこの世で何一つ良い行いをすることはできませんでしたが、十字架の上でたった三つのことをしました。
第1は、もう一人の強盗に向かって「お前は神をも恐れないのか。」と言い、神を認めたこと。
第2番目には、「俺達は自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は悪いことを何にもしなかったのだ。」と自分が罪人である、自分に問題があるということを正直に認めたこと。
そして第3番目には、救って下さいとまでは言えなかったのですが、「イエス様、あなたが天の御国に帰られたときに、私を思い出して下さい。」と願ったことです。
それに対してイエス・キリストは、あなたの罪は赦された、もうそれは解決した、そしてあなたは天の御国に帰るにふさわしい者とされたと教えているのです。

新しく変えられるために

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

 私たちは普段、罪の思いにふたをしていて、それらが出てきたら一生懸命押さえ込もうとします。しかし、ふとしたときに、そのふたが開いて出てきてしまうのです。悪い思いは押さえ込むのではなく、そこから変えられていくことが必要なのです。
神様は質も内容も全く異なるいのち、愛、喜び、平安、希望、力にみなぎっていく神のいのちを私たちにくださいます。そのために必要なのは、確かに私は罪を持っている、生まれながらそのような罪を持つ存在なのだ、一生懸命押さえ込んでも私の内からは悪いものが出てくる、ということを神様に対し正直に認めることです。イエス・キリストはそのために必要なすべての知恵も知識も、そして業もすでになして私たちに道を備えてくださいました。
「私の中にある妬む心、裁く心、恨む心、これを神様どうか解決して下さい。」と正直に認めてお任せしていくことが、私たちがなすべきことなのです。具体的に「私はその事で悩んでいます。苦しんでいます。助けて下さい。」と申し上げることなのです。その時に人は変わっていくことができるのです。

罪を言い表わす

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:8~9)

 この手紙を書いたヨハネという人物は、ボアネルゲ=「雷の子」と呼ばれました。癇癪持ちで、すぐに雷を落とすような短気で怒りっぽい人であったと思われますが、晩年彼は「愛の使徒ヨハネ」と言われたのです。全く変えられていきました。
私たちが変えられていくために必要なのは、言い訳や弁解ではなくて、自分の過ち、罪を認めていくことなのです。そうすると神様は、そこから私たちを救い出して下さいます。人間関係の中で私たちはトラブルを持ったり、難しさを感じたりすることがありますが、正直に自分の心の中の罪を認めて「あの人を妬みました。これは私の問題です。どうか私のこの罪を赦し清めて下さい。罪から解放して下さい。」と祈る時、その人に対する見方が変わり、良いところが見えてきたりするのです。
一気に変えられるか何回もそれが必要かは違いがあると思いますが、認めれば認めるほど解放されて変わっていくことができます。そして変えられて行く自分に気づく時、それは喜びになるのです。そして「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い物は過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなった。」(Ⅱコリント5:17)という聖書の御言葉を、実際に体験できるようになるのです。
イエス様は「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:20)と言っておられます。これは心の戸のことを語っています。心の戸は、外側からは開けることができないのです。どんなに大声で語っても叩いても決して開けられませんが、内側から簡単に開けられます。「イエス様。私は悩んでいます、苦しんでいます、どうぞこの問題のただ中に入って下さい。そして私のこの問題に勝利を、解決を与えて下さい。」と躊躇しないで祈って頂きたいのです。
心を開いて主をお迎えする時、神の力が皆さんの内にも働き始めるのです。神様が提供して下さっているこの恵みを実際の生活の中で受けて、共に様々な人間関係の中で、解放と勝利を味わわせて頂きたいものです。

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