日本の歴史の中でお茶が一番流行っていたのは戦国武将の時代です。1467年から約100年間戦争に明け暮れた時代でした。武士たちは戦いをし、血もいのちも流します。大変なストレスの中を歩んでいた彼らは、心を落ち着けなかければ、普通の生活はできなかったのではないでしょうか。そのようなストレス社会の中で、茶室に入り、静寂の中で心を落ち着けるリセットの時間としても、茶を飲む時が用いられたのではないかと思います。私たちの周りにも形は違くとも様々な形でのストレスや苦しみがあります。そういう意味で私たちに必要としているものも、心の平安ではないでしょうか。今日はご一緒にゆるぎない平安を頂く秘訣を学ばせて頂きたいと思います。
本当の平安
わたしは(イエス・キリスト)あなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(ヨハネ14:27)
外見から見れば幸せで、何も悩みがなさそうな人でも、本当は心の内には暗闇や痛み、悲しみなどを抱えている事が多いのではないかと思います。ですから、この御言葉は誰にでも必要な御言葉でないでしょうか。幸いなのは、神様は人を差別することなく誰にでもこにの平安を与えてくださるということです。しかし、この聖書の言葉を注意深く読むと「残します」と書いてあります。つまり、「今ある」と言うのです。あなたには、いま平安がありますか。ほとんどの人が思い煩い、悩み、不安になり、悲しく辛い思いを持っているのではないかと思います。聖書には「わたしの平安を与えます」と書いてあります。
私たちが普通考える平安とはどういうものでしょうか。何も問題がない、家内安全、商売繁盛でしょうか? 確かに健康が守られ、何も問題がない事を求め、平安を持ちたいと願うのですが、聖書は「わたしは、世が与えるのと同じようには与えません」と書いてあります。
お金が沢山入って幸せになった、あの人と上手くいくようになって幸せになった、いい事がたくさんあるから幸せだ、平安だ、という意味での平安とは少し違うというのです。これらはやがて崩れる危険があるのです。絶対大丈夫という事はないのです。ですからイエス様が与えようとしておられる平安というのは、そういった不安定なものではないという事がお分かり頂けると思います。
ある兵士が戦争で瀕死の重傷になり、いよいよもう終わりかというときに、彼の上官が何か言い残すことはないか、できることはあるかと問われた時、彼は「では、申し訳ないですけども、私の胸のポケットの中にある小さい聖書を取り出して、『平安』(上記のヨハネ14章27節)というところを読んでくれますか。」と願いました。読み終わった時に、彼は「今そこに書かれているその通りのものが私の内にあります。」と言って召されていったそうです。彼は、召されて死のうとしているその中で、完璧な平安があると言うことができたのです。この兵士は、普通で言えば最悪の状況の中でなお平安を持つことができたのです。このような平安はどこから来るのでしょうか。
それはイエス・キリストから来るのです。ご存じのようにイエス・キリストは十字架にかかって死なれた方です。このお方は死んで終わりではありませんでした。死んで三日目に復活し、甦られたのです。そして実に500人以上の人々が甦ったイエス様にお会いしているのです。この事は歴史上に起こった本当の出来事です。イエス・キリストはこの世に来られて十字架にかかっただけでなく、その死から甦って悪魔に勝ち、今も生きておられるということ、これが最も大切な事なのです。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたし(イエス・キリスト)のもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。(マタイ11:28~29)
イエス様は今も生きておられ「私のもとに来なさい」と言ってくださっています。ですから「あなたのもとに行かせて下さい」と祈るだけでよいのです。これだけで「あなたがたを休ませてあげます」という事が起こるのです。
あるおばあちゃんと一緒に沖縄に住んでいたIさんは中学生の時、足が骨髄炎ってなってしまいました。お金がなくて病院に行く事もできず、やっと病院に行った時にはもう手遅れで切断しかありませんでした。でも切断するお金さえもなく膿が出て痛くてしょうがなくてカミソリで自分で切って膿を出した事もあったそうです。その方が村にたった一人いたクリスチャンに紹介されて神様の事を聞き、「すべて疲れた人重荷を負ってる人はわたしのもとに来なさい」とのみ言葉を読んだのです。そして彼女は「どうぞ私もあなた(イエス様)のとこに行かせて下さい」と祈ったそうです。
たったこれだけの祈りですが、その時から彼女は変わって、次の朝起きると何だか心がすがすがしいのです。つい口から鼻歌が出て来たと言います。一緒に住んでいたおばあちゃんが「ついにおかしくなったか」と思って見に来たほどでした。彼女の心には平安が宿り、後の日には自分の家に子供たちを集めて神様のお話をするようになったのだと言います。その病を持ったままです。平安が彼女を強めていったのです。後の日には病からも不思議に癒されて、現在横浜で大きな教会の牧師婦人をしておられます。
死の不安からの解放
私たちが平安を失うもう一つの要素は「死」です。やがて必ずやってくる死に対して、あなたには備えがあるでしょうか。
あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家(天国)には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:1~3)
十字架にかかって三日目に甦り、天に帰っていかれたイエス様は、私たちが天国に行く事ができる備えをしてくださいました。「死」とは、神様(イエス様)が私たちを迎えに来てくださる時であり、それは喜びの世界への旅立ちなのです。結婚に際し、期待とワクワク感を抱きながら、新しい歩みに踏み出すような旅立ちなのです。そこには平安も恐れも悲しみも痛みもありません。本当に幸せな世界、天の御国なのです。ですから「心を騒がしてはなりません」と言うのです。
しかし無条件で誰でも全ての人がその御国に行けるのかというと、そうではないのです。なぜなら「罪」があると天国に入れないからです。罪があるまま天国に行ったとしたら、そこは最早天国ではなくなってしまうでしょう。いら立ちや恨みや妬み、敵対心その他様々な悪いものが入って来て、そこは天国ではなくなってしまうからです。ですから罪の解決ときよめがどうしても必要になるのです。
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:8~9)
何でも正直に自分の罪を認め告白するなら、神様はイエス様の十字架の故に全ての不義から私たちをきよめてくださると聖書は約束してくださっているのです。問題は「私は確かに罪ある者、そういう醜い人間です」というへりくだる心があるか、ないかです。神様に正直に認めて告白する時、不思議に神様は本物の平安、揺るがない平安を私たちの心の内に段々と強くしてくださるのです。「私にも平安をください」と正直に神様に祈って、恵みと平安を頂く者となれたらと願います。