不安と心配
私たちは“何となく不安…これからどうなってしまうのだろう”、というような気持ちになってしまう時があると思います。ところでここで出てくる「不安」と「心配」の違いをご存知でしょうか。「不安」は漠然としていますが、「心配」は経済的な事や健康面の事など具体的な事柄についての心配が多いのです。
そしてこのような思いに捕らわれると、心がだんだん暗くなってきます。何となく不安、心配でしょうがない…私たちがこういった不安や心配に対して正しい対処をしていく術を学んでおくことは、私たちの人生に非常に有益で、前向きに進んで行くためにはどうしても必要な事柄です。
普通不安は、何か具体的な状況から来ると思っていないでしょうか。例えば、お金がないとします。健康で体調が良い時はいいのですが、年齢を重ねて身体のあちこちが弱ってくると、「病院に行って寝たきりになって施設に入るだけでも数十万円必要だ…」などと不安になってきます。そんな時に宝くじで一億円当たったとします。これで何の心配もなくなると思いますか。「一億円あったら利息だけで何とかなる…でも当選を知ってちょっと良からぬ人々が寄ってきたらどうしよう、それに対してどう対処したらよいのか…」などと、今度は別の不安がやってくるのです。
私たちが不安になるのは環境や状況によるのではないということをしっかり知っておくことが大切です。「これさえあれば、心配や不安から解放される」と思いがちですが、それは一時期の安心を得ることはできても、私たちの心の持ち方が変わらなければ、いつでも不安はつきものなってしまうのです。では心配や不安からはどのようにして解放されるのでしょうか?
不安や心配に打ち勝つには
まず何となく不安ということがありますが、それはどこから来るのかというと、「自分は一人ぼっちだ」ということです。守ってくれるものがない、どこにも頼るものがないということです。私たちは年齢を重ねても、「自分が元気なうちは大丈夫だ、何とでもなる」という気構えも体力もあるかも知れません。しかしだんだん力が弱ってくると、人間そんな強いものではないということを味わうようになります。
「これから先、私はどうやって生きていったらいいのだろうか」と思うと何となく不安になるのです。ですから守ってくれるものがある、支えてくれる人がいるということを知ることが大切なのです。いざという時に頼るものがあるという確信、この思いこそが私たちを不安から徐々に解放してくれるのです。
例えば難しい問題があったり困った時は、よく知っている人に頼んだり、弁護士さんに頼んだりします。本当にその人に力あるなら、自分にはどうにもならないので、全部その方にお任せするようになるでしょう。問題がなくなった訳ではありませんが、お任せすると、問題はあってもそれなりに心は落ち着いてくるのです。私たちに頼るべき方がいるかどうかということなのです。これから先、人生の中で何があるかわからないと思ったら何でも不安の原因になります。ですからどんな事があっても頼ることのできる方がいるということが大切なのです。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
(イザヤ41:10)
この言葉をしっかり受け取られるなら、心配は減ってきます。「神様はいつも私と一緒だ。神様が共にいてくれるから大丈夫」もしこういう考え方ができるようになってくると、将来何が起こるかわからなくても、どんな状況に陥ったとしても、神様がいるので大丈夫だと考え、根本的な安心感を持つことができるのです。ただ私たちはその方とどんな関係にあるでしょうか。
その方から助けを頂ける関係があるでしょうか。どんなに凄い神様であったとしても、この私に対しては助けとなるのだろうかと考えると心配になるのではないでしょうか。
わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。(エレミヤ33:3)
しかし神様は私たちに「私を呼べ」と言ってくださっているのです。私たちが困難にあった時、苦しい時、思い煩いに陥った時に、ただ神様の名前を呼べば良いのです。自分の心の思いを神に向かって叫べばいいのです。「助けてください、今苦しいのです、辛いのです、悲しいのです。」と言えば良いのです。私たちが神様に向かって祈ること、そのこと自体を神様は喜んでくださるのです。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6~7)
「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とは、「神様の前にそれを正直にお話ししなさい」ということなのです。私たち日本人は奥ゆかしさを美徳としています。ですから聞き苦しい本音を言うのをちょっと躊躇する方が多いですが、神様には無用な遠慮です。「私はこうなりたいのです、こうして欲しいのです」と、自分の心配や不安も含めて、あなたの願い事をあらいざらい申し上げる時、不思議な『神の平安』があなたの元にやって来ると言ってくださっているのです。
普通私たちは状況が良くなって、すべてが上手くいくときに得られる平安しか知らないと思います。物事が上手くいかないのに平安ということは普通はあり得ないことです。ところが上手くいかない時でも平安が出てくるのです。これが『神の平安』です。私もパニックになるような状況になった時、心が不思議に平安で、心が落ちついているのに気が付いたことがありました。神様に正直に弱さを苦しさ・本音をお話する時、この平安が大きくなっていったのです。
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)
神を愛する人とは、神を信じる人ということです。「神様」と呼ぶ人のことです。すなわち神様に頼る人です。その人には、すべての事が共に働いて益となる、最悪の事も最善になるという神様の約束です。皆さんにとって、実は嫌だ嫌だと思っていた事が全部益に変わる、良かった事になるというのです。たとえば、劣等感で苦しんだ人は、同じように苦しむ人の心を理解し、慰め励ますことができるようになっていくのです。マイナスがプラスになるのです。このみことばに信頼する時、私たちが心配している事柄は、心配ではなくて益になるための前兆となり、今までの辛い事も、良い事の計らいとなっていることに気づかされるのです。
まさに「かわいい子には旅をさせろ、苦労は買ってでもしろ」と言われるとおりです。実際悲しい道、苦しい道、辛い道は、長い人生の中では人の深さが養われるためにとても大切なのです。ですから神様はそれを許されたのです。神様はすべてを益に変えてくださるのです。
私はもともとは何でも暗く考える性格でしたが、神様を知ってからは嫌な事が起きるとまず「神様、感謝します」と言うのが口癖になりました。これは、いつも心が明るくなって行くためには大変良い秘訣だと思っています。そして落ち込む事があっても、これも益となると思うと、あまり落ち込まなくなったのです。ぜひあなたもこれらのみことば葉を受け取ってくださったらと思います。同じように不思議に不安や恐れが小さくなっていくことをきっと経験していかれることと思います。