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神の目的を生きるために

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私たちの存在意義

 神は、生きて、おられます。今も、あなたのそばに、おられます。神は、ご自分で、ご自分のことを、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト記3:14)と自己紹介されました。   「神は、います。それが神だ。」という意味です。不思議な言葉ですが、神を説明するのに、それ以上ふさわしい言葉は、確かに他に無いのかもしれません。神は確かに、今、います。
「あなたは神がいると思いますか」と質問する人がいます。私はいつもこの質問を聞くと、おかしな質問だなぁと思っています。なぜなら、その人がどう思おうが、神がいるという事実は、変わったりしないからです。
私は最近、ある事実に気が付きました。というのは、確かに私がどう思おうが、神がいるという事実は変わったりしないのですが、私がどう思うかによって、決定的に変わることがあるということです。それは、私の生き方です。
『神がいてもいなくてもどっちでも構わない。神がいようがいまいが私には関係ない』と考えていた時、自分に対しても「お前は生まれてきても生まれてこなくても、いてもいなくても、どっちでもよかった存在だ。」と言い聞かせていました。私には生きる目的が無かったのです。私は自分が何のために生きるのか、全く知りませんでした。結局いつかは死ぬのに、一体何が楽しくて、一体何を求めて、こんなに一生懸命生きるのか悩んでいました。生きる目的が無かったのです。
もちろん、受験とか、就職とか、その都度それなりに短期的な目標はありましたが、それらは生きる目的ではありませんでした。私は、空しかったのです。
私がどう思おうが、神がいるという事実は、確かに変わったりしません。しかし、私が「わたしはある」という神の自己紹介を受け止め、「ハイ! 神よ、あなたは確かに『います』」と認めたときから、私にではなく神の方に、私を生かす目的があるのだということに気が付いたのです。
それ以来、自分に生きる目的がなくても、それで落ち込む必要はなくなりました。聖書は、私たちは神のために造られた、神の作品だと、はっきり語ります。神の作品として、私たちは造り主の意図した使用目的を果たして生きていくのです。
私たちが楽器だとしましょう。私たちを造られた神が、その楽器の製作者です。神に与えられた使命を果たす生き方とは、私たちが製作者の意図する音色を奏でて生きることです。製作者は、私たちが私たちらしく歌うことを、心底願っています。私たちに込められた、神の目的を生きるとき、私たちの本当の価値がきらめきます。私たちは本当に、私たちらしく輝くのです。
例えば、私にはピアニストのKさんと、ソプラノ歌手のAさんという友人がいますが、神はご自分のために、Kさんをピアノを弾くように、Aさんを歌うように、造られました。彼女たちの奏でる音楽を聴いて、賛美を通して、多くの人が、すごいなぁ!きれいだなぁ!神のくださる才能とは、どうしてこう素晴らしいのだろう!と、喜ぶでしょう。神の目的を見出して生きている人は、美しいです。神の目的を生きる時、私たちは本当の意味で、一番私らしい私になります。
神がいないなら、どうしてピアノを弾くのですか。どうして歌う必要がありますか。それで稼ぎがあるからですか。それで気分が楽しいからですか。そうして生きていくためですか。それならどうして、生きるのですか。生きるのは何のためですか。
結局、神がいないなら、全てが無駄なのです。どんなに得意でも、どんなに好きでも、神がいないなら、無意味です。でも、神がいるので、すべてに意味があります。「いるのかな~いないのかね~」ではなく、「います!」と、私たちが神を認め、神の目的を生きる時、私たちは本当の意味で私らしい私、一番輝く私になるのです。残念ながら、私は上手にピアノを弾くことも、上手に歌うこともしませんが、私は私にできることを喜んでします。神がこんな私にも与えてくださった目的があるので、その目的を果たして、生きるのです。

神は目的をもって私たちを造られた

 生きる目的がある人生とは、実にいいものです。形は似ていますが、フォークを”櫛(クシ)”として使ったら、フォークの作り手はがっかりしてしまうでしょう。フォークはものを食べるため、くしは髪をとくために作られたのです。バラはバラのように、すみれはすみれのように咲くので、それぞれが美しい。バラみたいなすみれがきれいなのではなくて、すみれは、すみれとして精いっぱい咲くから、可憐で美しいわけです。
しかし、誤解しないようにしなければなりません。神の目的を生きるということは、成功的な人生、勝ち組人生を歩むという意味ではないということです。たくさん稼げばいいのでしょうか。子どもに出世させればいいのでしょうか。脚光を浴びればいいのでしょうか。いいえ、違うのです。神の目的は、しばしば私たち人間の目標と、いつも同じとは限りません。
私は、一度だけ出会った、ある小柄で綺麗な女性のことを忘れることができません。さらさらとしたストレートの髪が印象的な彼女は、音大を卒業したか、あるいはしようとしていた時でした。フルートで学位を取得し、プロとしての道に漕ぎ出そうとしていました。「そうですか。それで最近はどんな活動をしているんですか」と尋ねると、彼女は、声楽の勉強をしていると答えました。
いよいよ船出というときに、どうしてまた音大に入り直すということになったのか、私が質問し終わるか終らないかのうちに、私は、彼女が淡いピンクのダウンコートのポケットに、ずっと左手をつっこんだままでいるのに気付きました。実は、彼女は、これからという時に交通事故に遭い、左手が一生使えなくなってしまったのだと、小さな声で答えました。
彼女の話を聞き、私は、頭を打ち付けられるようなショックを感じました。どんな顔で彼女の隣にいたらいいのかと、困惑しました。彼女がどんなに無念であったか、考えると心が締め付けられるような気がしました。こんなひどいことが起こるなんて「神はおられない」と、私たちは考えてしまうかもしれません。神に見捨てられたのだろうかと、がっかりしてしまうのです。
私は彼女のことを、時々思い出しています。彼女に、いつかきっと神と出会ってほしいと思うのです。もし、彼女が神と出会うなら、彼女は気が付くはずなのです。彼女はナンバーワンのフルーティストにはなれなかったかもしれない。でも、誰もが味わうわけではない悲しみの意味、屈辱の味を知った彼女だからこそ奏でられる、オンリーワンの音色があるということに。その過酷な道を通ったからこその、深くて味わいのある、オンリーワンの人生の音色があることに。
もし私たちが、「神は、います」と言うなら、私たちは、どんな困難の中にあっても、そこに神の目的を見出し、乗り越えることができます。

みことば神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
(ローマ8章28節)

 一人のクリスチャンの少女の話があります。彼女は重病で瀕死の状態にあり、もう口もきけないほど弱り、耳もよく聴こえなくなっていました。ある日、その彼女の病床へ、友人が見舞いに来ました。友人は、彼女が神を信じているのに神は何も助けてくれないではないかという意味を込めて、一枚の白い紙に、「God is nowhere!」(神はどこにもいない)と書いて彼女に見せました。
そうしたら、その少女は黙ってその紙を受け取り、「nowhere」の“w”と“h”の間を少し離して、「God is now here!」(神は今、ここにいます!)と書き直しました。それを見たその友人は非常に驚き、何も返事をすることができなかったというのです。彼女は、神はいると知っていたらからこそ、死の床にあってなお、平安でした。神を認めた者にだけ許された、死の向こうにある永遠の希望を、彼女は仰いでいたのです。
みなさんは、どんな人生の音色を、奏でていますか。あなたを造られた方は、あなたがあなたらしく輝き、世界でたった一つの音色を高らかに奏でるのを楽しみにして、あなたを待っておられます。この方のもとに、帰ってください。もし、本当に心を開いて求めるなら、この方は真実な方ですから、あなたの人生に必ず喜びを湧きあがらせてくださいます。

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