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だまされてはいけません

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 人間の社会には残念ながら、騙し事、偽り事、耳障りのいい話をする人が沢山います。「こうすればご利益がありますよ!」とか、「沢山捧げればこんな祝福や恵みがあります。」とか言って、私たちの欲を掻き立てて騙そうとするのです。よくよく吟味していかないと、すぐ騙されてしまうのです。詐欺の手口は巧妙です。私は騙されないという人が結構騙されているのです。私たちは注意して見極めていく必要があるかと思います。聖書には見極め方の一つとして「実を見なさい」と記しています。

あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
(マタイ7:16~18)

いいお話だけでは私たちは惑わされてしまうかも知れません。いい事もあれば悪い事もある。このことを認める時に初めて正しい対処の仕方というものを心得ていくのだと思います。
これから、聖書に記された、イエス様が語られた預言の御言葉を読ませて頂きます。

イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」(マタイ24:2)

 彼らは何を見ているのかというと当時建っていた神殿です。エルサレムには大変素晴らしい神殿が建っていたのです。それが全部崩されてしまうと言うのです。これはAD70年に実際に起きた事でした。イエス様が語られているのはAD30年位です。イエス様が語られてから40年程たった時にこの事が起きたのです。こうごうしいまでの神殿が全部当時のローマの軍隊によってこわされてしまいました。ありえないと思う事が本当に起きたのです。
私たちは聖書の言葉を単なるおとぎ話、良い話を聞かせてくれる書物だくらいに理解しているかも知れませんが、実は聖書は歴史上の事実を語っているのです。ですから私たちは聖書の言葉を真剣に調べ、真実に受け取っていく必要があるのです。

イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」(マタイ24:3)

「世が終わる時が来る」という事がはっきり聖書に記されているとするなら、私たちはその備えをする必要があるのではないでしょうか。また世の終わりの時のしるしとはどんなものなのでしょうか。

そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。」
(マタイ24:4~5)

 私たちを惑わす者がいるのです。「わたしの名」というのは「神とかキリスとか救い主」というような意味の言葉です。あるグループでは「素晴らしいビデオがあるから見に来ませんか」と誘い、いかにも納得できるような映像を見せていつの間にか洗脳してしまうのです。この団体のリーダーであった人は「私は再臨のキリストだ」と言っていたのです。私たちは騙されないように気をつけるべきなのです。

また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。
(マタイ24:6~7)

 この預言の言葉はいかがでしょう。説明する必要もない程だと思います。戦争がなかった年が今迄にあったでしょうか。地球上のどこでも民族、国々の間で戦争はあり続けたのではないでしょうか。

また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。(マタイ24:11)

 昔ユリ・ゲラーという人がテレビ番組に出演し、テレビの画面を通して、止まっていた時計を動かすというパフォーマンスを行ったところ、実際にある知人が「確かに家の時計が動いた。」と言っていました。ですから、これは単なる偽りではなく霊的な力が働いていたということがあり得ると言うことだと思います。偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わすというのはそういう事です。奇跡を行ったり不思議を見せたりするのです。きちんと見極めなければ、私たちは騙されてしまうのです。

御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。(マタイ24:14)

 これを話した時のイエス様の活動は、まだイスラエルという地域、四国ほどの広さの所をぐるぐると3回ぐらい回っただけです。この時にイエス様は「全世界に宣べ伝えられ」などと言ったのです。皆さんはどう思いますか。「イエス様は大言壮語で大ウソつきだ」と思うのではないでしょうか。
私たちは全世界にキリスト教が伝わっている事を知っていますから、これらの言葉を当たり前のように読んでいます。でも当時の人々にとって「何て大げさな事を言うのだろうか、全世界に伝えられるなんて大嘘つきもいいとこだ」と思われてもおかしくない言葉だったのです。
しかし現在世界の国々は200ヵ国程度ですが、聖書は各部族の言葉にまで訳され約2千の言葉に翻訳されています。聖書は隠れたベストセラーと言われますが、一年間でどれくらい聖書が売られ、配られているか想像できますか。日本は世界で最もクリスチャンの少ない国の一つですが、この日本で一年間に約600万部の聖書が売られ、全世界合わせると約2億5~6千万冊です(冊子を含めて)。「福音は全世界に宣べ伝えられる」というイエス様の言葉がまさに実現しつつあるのです。

いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。偽預言者たちに用心しなさい。(マタイ7:14~15)

自分の愚かさ、醜さを認めることは嫌なことです。プライドが許さないのです。でも正直な自分を真実に見つめれば、「私は本当に自己中心で、高慢な者で汚い欲が一杯です」と自分の弱さ、罪に気づくのではないでしょうか。そうすれば誰でもこの恵みに与る事ができるのです。自分の過ちに気づけたら、認められたら何と幸いでしょう。それがここで言う「狭い門」です。皆様の傍に来る、聞き心地の良い事ばかりを言う人がいるなら、ちょっと注意した方が良いと思います。表面がどうであれ、内側には貪欲なオオカミが隠れているかもしれません。よくよく吟味する必要があるのです。

見よ、わたし(イエス・キリスト)は戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示3:20)

いのちに至る狭い門から入る秘訣は、自分の罪、弱さを正直に告白して、イエス・キリストを自分の救い主としてお迎えすることです。ここでいう「戸」というのは心の戸のことです。心は自身以外、外からは誰も開けられないのです。皆さんが心を閉じているなら、どんな人でも絶対入れません。でも皆さんが心を開けるなら、イエス様の声を聞いて心を開けるなら、イエス様はその人を愛し、その人の心に入って共に食事をする、すなわち日常生活を共に歩んで下さると言っているのです。
イエス様はあなたの罪を赦すために十字架にかかって下さいました。このことを受け取り「こんな罪だらけの私の心ですが、来て下さい」と祈る時に、あなたの内に今まで知らなかった平安、困難や試練に立ち向かう力が与えられるのです。この恵みに一人でも多くの方が共に与れたらと願っています。

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